エニックス ゲーム・ホビープログラムコンテスト(後編)  そして伝説へ…








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堀井雄二、中村光一、森田和郎、芸夢狂人。

当時のパソコンゲームの逸材が一同に集った。
コンテストで集められた若き才能たちは、エニックスのもとで新たなゲームソフトを開発し、世に送り出していく。
だが、ハードウェアの進化は著しく、ユーザーに求められるゲームも移り変わっていた。


そして彼らは、新たな旅立ちの時を迎える。




祭りの後 ――― コンテストがもたらしたもの




『ドアドア』がコンテストで優秀プログラム賞を獲得し、さらに市販化されてヒットした結果、ゲームの印税として1千万円ほどの金額が中村光一の懐に飛び込んできた。
上京して大学生となっていた中村は、自作のゲームで得た収入で飲み歩き、バイクを買い、遊びにつぎ込んだ。だが、印税の半分はしっかりと貯金していた。自分の夢をかなえるための、貴重な軍資金だった。


大学生活が落ち着いた頃、中村はエニックス社長の福嶋に相談する。

「ゲームを制作する会社を作りたい」

中村の要望に応じ、福嶋は会社設立の手助けになる人材を紹介した。
こうして1984年4月9日、チュンソフトが誕生する。


一方、堀井雄二は『ラブマッチテニス』で得た賞金10万円で、Apple IIのコンパチ(互換機)を買った。純正品は高価で手が届かなかったため、安価な機種を選んだのだ。
それでも本物のApple IIに対する憧れは捨てられず、Appleのロゴマークを雑誌から切り抜いてコンパチに貼り付けた。
後にそのコンパチ機で、米国製RPGの『ウィザードリィ』に熱中し、RPGの魅力に取り憑かれることになる。


森田和郎は『森田のバトルフィールド』の後に、シューティングゲーム『アルフォス』(1983)を開発し、エニックスより発売。
森田の類まれなるプログラミング技術によってPC-8801上で実現した滑かなスクロールはユーザーを魅了し大ヒット作となる。
その翌年、史上最強の将棋ソフトと誉れ高い『森田和郎の将棋』(1984年)を世に送り出す。




『森田和郎の将棋』誌面広告




森田和郎の将棋(PC-8801版)




ソフトを起動すると真っ先に表示される森田の顔が、『森田和郎』ブランドの影響力を物語っている。
『森田のバトルフィールド』とは違い、長い開発期間を経て完成した、森田の自信作だった。
しかし、そんな『森田の将棋』に不満を抱いた人物がいた。


ある日、エニックスの千田幸信は、ゲームに同封して返信されてきたアンケート葉書に目を通していたところ、1枚の葉書が目についた。『森田の将棋』のアンケート葉書で、差出人の名前は平仮名で書かれている。最初は子供かと思ったが、序盤の駒組みについて不満を述べており、あまり子供らしくない文章だ。周りの社員にも見せてみたところ、やがて、驚きの声があがった。まさか……!


その葉書を送ってきたのは、「ザ・ピーナッツ」や「ザ・タイガース」の楽曲をはじめとする多くのヒット曲を手がけた、作曲家のすぎやまこういちだった。




その頃、僕は将棋に凝っていて、大山康晴名人と対局したこともあった。その時は二枚落ちながら、ひどく汚い手を使って大山さんに勝ったんです。
で、「森田の将棋」をプレイしてみたら、終盤は強いけれど、序盤の駒組みがイマイチだなと思ったので、アンケートハガキに書いて送りました。
すると、それを見たエニックスの社員の人たちが「これって、あの“すぎやまこういち”だよな?」、「こんなにゲームが好きなら、一緒に仕事ができるんじゃないか」といって、連絡をくれたんです。


『WiLL 2011年12月号増刊 すぎやまこういちワンダーランド』ワック.






エニックスがコンテストで選出し、多少の改良を加えて市販したゲームソフトはパソコンユーザーたちの好評を博し、初年度利益は三億五千万円に達した。エニックスの知名度も上がり、優秀な人材が集まるようになってきた。福嶋の読みが見事に当たったわけである。


エニックスはパソコンゲームを次々と世に送り出し、制作者には売り上げに応じて印税を支払っていた。また、販売するゲームのパッケージに制作者の名前(またはグループ名)を必ず入れていた。
ゲームは才能があるクリエイターが創る「作品」という姿勢が見られる。




これらのゲームソフトがヒットした理由を整理すれば、まずつくり手の著作権を大切にしたことがあげられる。ゲームソフトのコンテストでも、他社の主催の場合には、作品の著作権は買い取りが普通だった。このこと自体は出版関係でも、そうしたスタイルのコンテストがあるわけで、あまり不思議なことではない。だが、ゲームソフト業界では作者名を公表することはなかった。優秀なクリエイターを自社で抱え込んで安い料金で使ってやろうという発想がそこにあった。
私はこうしたやり方はおかしいと思った。それではいい作品が集まらないだろうし、ゲーム開発者の権利を軽視しすぎていると感じた。そこで、最初のコンテストのときから、売れれば売れるほどゲーム制作者の収入が増える印税方式を導入した。もちろんコンテストの賞金とは別に、である。


次に、ユーザーの視点でパッケージや説明書をつくったのも重要なポイントだったのではないかと思う。それまでのゲームソフトはちゃちな印刷のパッケージに、ペラ一枚の簡単な説明書がついているだけだった。これでははじめての人には操作法がわからないし、ゲームの進め方だってわからない。
こういった不満を解消するために、大幅にグレードアップしたブックサイズのパッケージに、小冊子スタイルの説明書を添付するようにした。このスタイルはいまでは、普通のものになっているが、その頃としては画期的だった。しかも、作者の顔写真やプロフィールをそこに載せた。印税方式を採用したのと同じように、ゲームソフトを著作物として認めていることをつくり手とユーザーの双方に示したわけである。


福嶋康博『マイナスに賭ける!』




コンテストの特集記事がきっかけとなって『週刊少年ジャンプ』との繋がりも深まった。『ジャンプ』でパソコンゲームの特集が組まれる時は、エニックスのゲームも多数掲載された。もっとも、その記事を書いているのは、エニックスからゲームを出している人物……堀井雄二なのだが。


さらに『週刊少年ジャンプ』のマンガのキャラを使用したゲームも出すようになった。芸夢狂人が制作した『アラレのジャンプUP』(PC-8001mkII・1984年)を皮切りに、『ウイングマン』(1984年)、『走れせんべいさん』(1985年)、『ウイングマン2』(1986年)、『北斗の拳』(1986年)など。
その裏側では、堀井雄二と懇意の仲であり、無類のゲーム好きである編集者、鳥嶋和彦の尽力があったことは想像に難くない。





ゲーム・ホビープログラムコンテストの終焉




第3回ゲーム・ホビープログラムコンテストは1984年の夏に告知された。
その募集広告には、かつての入賞者の肖像と、彼が稼ぎだした金額が表記された紙幣が描かれていた。









新たな“アーティスト(印税所得者)”の幕開けだ。
その名は「ゲームプログラム作者」
小説家や漫画家、それに作詞家・作曲家のような――――
夢のある“印税生活”が君を待っている。
パソコンひとつで富と名声をつかめる時代がやってきた。
中村光一君、19歳。
今年3月の1ヵ月間で4,067,220円もの印税を、エニックスから受けとった彼――
「ドアドア」一本だけで、印税額は2,000万円を超えるだろう。
アメリカで、いや、日本で続々と誕生する“ゲーム作者のリッチマン”達。
君にも、そのチャンスがやってきた。
さあ、今こそチャレンジの時だ!






第1回のキャッチコピーは「あなたは、ニュースター第1号」だった。
自作ゲームで莫大な印税収入を手にし、会社も興した中村光一はまさに「ニュースター」であり、ゲームクリエイターを目指す少年たちの憧れの的だったのである。


賞金は大幅に増額され、最優秀賞は「エニックスソフトウェア大賞」として500万円、優秀賞は250万円(2名)、入賞は100万円(10名)という破格の金額が設定された。


しかし裏を返せば、応募作品を集めるために賞金を上げざるを得なかったとも言えるわけで、エニックスの焦りも感じられる。
果たして、中村のような優秀な人材は集まるだろうか。新たなスターは生まれるだろうか。


蓋を開けると、応募作品が多数集まったため選考に時間がかかり、当初は11月に結果が発表される予定だったが、12月に持ち越しになった。


だが、入選した13作品のうち、実際に市販されたゲームは5作品のみ。
最優秀賞は森田和郎の『森田の将棋』であった。既に主催会社からゲームを出している人物を最優秀賞に据えたのでは、選考基準が疑われても仕方がない。
しかし、これは社長の福嶋にとっても、失意のうちの決断であったのかもしれない。

人材が集まらなくなったのである。




ゲームコンテストは都合、三回開催された。だが、最初の13本の入選作に比べて、回を追うごとに作品の質が低下していった。たとえば、第3回目の入賞作品を見ると、13作品のうちに商品化に堪えたのがわずかに4作品しかなかった。その意味では、入賞作品13作品がすべてヒットを飛ばし、プロのゲームクリエイターを輩出した第1回めのコンテストが大成功だったということになる。
ゲームコンテストには、自社に優れた作品を取り込むこともあるが、優れた人材を発掘して業界を活性化しようという狙いもあった。しかし、作品の質がこれだけ落ちてくると継続する意味はない。そこで、第三回目を終了した段階で、一時ストップすることにしたわけである。


福嶋康博『マイナスに賭ける!』






コンピューターの進歩は目覚ましいものがある。8ビット機から16ビット機の時代へと移り変わっていた。、
スペックが向上し、美麗なグラフィックやサウンドを表現できるようになった一方、ゲームの制作にかかる作業量も増えていった。また、かつてのようにアクションやシューティングよりも、パソコンでしかできないアドベンチャーゲームやロールプレイングゲームが人気を集めていた。それらのゲームは、元となるプログラムに加えて、文字のシナリオや、イラストや、サウンドも必要になる。
やがてゲーム制作は分業制が主流となっていった。プログラムをする人、話を作る人、絵を描く人、パソコンに絵を入力する人、作曲する人、パソコンに曲を入力する人etc ……。


やや後の話になるが、エニックスが企画・販売を手がけたアドベンチャーゲーム『ジーザス』(PC-8801 1987年)の制作に、あの芸夢狂人が参加した。
シナリオやグラフィックは別の人物が受け持ち、芸夢狂人はプログラムを任される。BGMはすぎやまこういちが担当した。PC-8801上で幾パターンものアニメーションを表示しており、隠れた名作としての評価があるが、開発中はシナリオが二転三転し、芸夢狂人にとって後味が悪い制作現場となる。




『ジーザス』開発ミーティング。右奥が芸夢狂人。




続編の『ジーザス2』の制作も決まり、再度プログラムを引き受けたが、やはりシナリオが難航し、開発期間は3年にも及んだ。
後に芸夢狂人は当時を振り返って「歯車の一個」だったと自嘲している。




個人でやるのは終わりだね。1人で全部やるというような、小さなカタマリでやるというのは不可能になってきちゃって、もうエニックスに行ってからは全部分業制ですから。


『OBSLive 8bit特集 芸夢狂人インタビュー』2012年5月19日放送,おにたま放送局




『ジーザス』はプログラミングだけ担当しました。『アラレ……』もドット絵は別の方に描いてもらったのですが、もう一人でゲームが作れる時代じゃなくなっていました。ジーザスのように大勢の人が集まって1つのゲームを作るのは大変だったね。

(中略)

昔、自分の思い通りになった、1人でプログラムしていた頃が一番良かった(笑)


アスキー書籍編集部『みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・PC-6001』アスキー,2005年.






芸夢狂人はアメリカに留学するために、途中で『ジーザス2』のプログラムを降りたため、報酬を手にすることはなかった。
それを最後に、芸夢狂人はゲームの世界から身を引くことになる。




ハードウェアの進化とともにパソコンゲームの質は向上していたが、当然、データ量は増加し、パソコン誌に掲載できる程度の長さのプログラムでは収まらなくなった。
パソコンゲームの市場は拡大を続け、パソコンゲーム専門誌の創刊が相次いだ。そして、中村が立ち上げたチュンソフトのように、パソコンゲームの愛好家たちが集い、共同でゲームを制作する小さなソフトハウスが、次々に新たなゲームを世に送り出していた。
日本ファルコム、マイクロキャビン、T&E SOFT、クリスタルソフト、リバーヒルソフト、ゲームアーツ、スクウェアetc ……


個人でゲームを制作する時代は、既に過ぎ去っていた。
ゲーム・ホビープログラムコンテストはわずか3回で、その役割を終えたのである。





受け継がれてゆくもの




1988年、エニックスは出版事業に参入。『ドラゴンクエスト 公式ガイドブック』を皮切りに、攻略本、小説、ゲームブック、4コママンガ等、ドラゴンクエストの書籍を次々に刊行し、ゲームの人気に連動するかたちで順調に売り上げを伸ばしていく。


1990年初頭、エニックスは『ファンタジーコミック大賞』を開催する。ここで入選したマンガ家たちが、やがて『月刊少年ガンガン』の主力となっていく。




「ファンタジーコミック大賞」告知ポスター




かつてゲーム・ホビープログラムコンテストで新たな才能を発掘したように、出版の世界でもコンテストによって人材を集め、少年コミック誌でも成功を収めたのだ。








1985年8月31日。
エニックスの関係者が一同に集ったパーティーが都内で開催された
その名も「エニックスファミリー全員集合!」


プログラマーをはじめとする100人以上の関係者集まった大パーティーは、福嶋康博社長の挨拶に始まり、堀井雄二が乾杯の音頭をとり、中村光一と森田和郎が壇上でインタビューを受け、場内は熱気と笑いの渦に包まれた。












「エニックス通信」アイ・オー 1985年11月号(工学社)




会場はホテルニューオータニ。
かつて第一回ゲーム・ホビープログラムコンテストの表彰式が開催された、記念すべき場所だった。


この時、エニックス社長、福嶋康博の胸中は如何なるものであっただろうか。


たった3人で、手探りで始めたゲームソフト事業だった。
都内を歩きまわり、電話で声を枯らし、必死になってコンテストの応募者を募った。
そうして集まった逸材たちが、会場に集っていた。


既にエニックスは、名実ともに有名メーカーの仲間入りを果たしていた。
新たに参入した「ファミリーコンピュータ」でも、中村光一の『ドアドア』がヒットしている。秋には堀井雄二の『ポートピア連続殺人事件』を発売できるだろう。その次は……。


その年の冬、『ドラゴンクエスト』の開発がスタートする。








『ドラゴンクエスト』の発売から3ヶ月後の、1986年8月。
都内で「エニックス ゲームプログラミングスクール」が開催された。









日程は3日間。
上級クラスでは、堀井雄二がシナリオ作成法を、森田和郎が思考ルーチンを、中村光一がゲームデザインを、そして芸夢狂人が、マシン語のプログラムを教授する。
(初・中級クラスはプログラマーの日高徹が担当)


かつてゲーム・ホビープログラムコンテストで集った一流の人材が、後進の育成のために、再び一同に集ったわけである。


彼らの声と、言葉と、ゲームを通して、創作の遺伝子は受け継がれていく。


次世代のニュースターへ。




(終)









参考文献・サイト

多摩豊『テレビゲームの神々』光栄,1994年.
福嶋康博『マイナスに賭ける』KKベストセラーズ,1998年.
石ノ森章太郎(監修),滝沢ひろゆき(画)『マンガ ドラゴンクエストへの道』エニックス,1990年.
滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』青春出版社,2000年.
志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.1』毎日コミュニケーションズ,2000年.
志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.2』毎日コミュニケーションズ,2000年.
大下英治『エニックスの飛翔』しょういん,2001年.
アスキー書籍編集部『みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・PC-6001』アスキー,2005年.
アスキー書籍編集部『蘇るPC-8801伝説』アスキー,2006年
『WiLL 2011年12月号増刊 すぎやまこういちワンダーランド』ワック.
「堀井雄二インタビュー」『PLANETS VOL.7』第二次惑星開発委員会,2013年.
『超超ファミコン』太田出版,2014年.

「ゆう坊のでたとこまかせ」『月刊OUT 1982年4月号』みのり書房.
同 1982年12月号
同 1983年4月号
「オモシロかしこいパッケージソフトたち」『月刊ログイン 1983年6月号』アスキー.
「スター・ゲームデザイナー登場 堀井雄二」同 1983年10月号
「スター・ゲームデザイナー登場 中村光一」同 1984年3月号
「スター・ゲームデザイナー登場 森田和郎」同 1985年3月号
「遊んでつくってマイコンゲーム!!!」『週刊少年ジャンプ 1983年 No.14 3月21日号』集英社.
「できたてホカホカマイコン最新ゲーム」同 1983年 No.49 11月21日号
「エニックス通信」『月刊アイ・オー 1985年11月号』工学社.
「点描にっぽん列島 コンピュータ・ゲーム」『エコノミスト 1987年3月17日号』毎日新聞出版.
「ブレイクタイム 堀井雄二」『週刊宝石 1996年2月1日号』光文社.

「日本初のゲーム作家・芸夢狂人さんインタビュー」OBSLive 8bit特集 2012年5月19日放送分
おにたま放送局(http://onitama.tv/obsweb/index.html
ニコニコ動画リンク(http://www.nicovideo.jp/watch/sm17895120

あ・ら・もーど温泉 「マイクロオセロリーグ」歴代勝敗表
http://www13.plala.or.jp/antispam/general/O_League.htm

こうやまのほをむぺゐぢ 芸夢狂人さんをたたえるコーナー
http://www1.odn.ne.jp/beni/game/gam_kyo.html

Wikipedia 中村光一 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%89%E4%B8%80
同 森田和郎 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%92%8C%E9%83%8E
同 鈴木孝成(芸夢狂人) (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%AD%9D%E6%88%90





追記


森田和郎氏は長年に渡ってプログラマーとしてゲームソフトの制作に携わっていましたが、2012年に57歳という若さで逝去されました。訃報は将棋専門誌や大手メディアでも報道され、多くの方々が森田氏のあまりにも早過ぎる死を悼みました。

鈴木孝成(芸夢狂人)氏はプログラマーを引退した後は開業医として活躍されていましたが、現在は閉院し、非常勤医師として悠々自適の人生を送っているようです。趣味の絵では二科展に入選するほどの腕前を誇っています。

ドラゴンクエストと直接の関係はありませんが、両名ともに日本のコンピュータ・ゲームに多大なる影響を与えた人物であり、彼らの足跡を記憶にとどめて頂ければ幸いです。




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