エニックス ゲーム・ホビープログラムコンテスト(中編) 導かれし者たち







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エニックスの歩みと堀井雄二の受賞経緯に続き、今回はゲーム・ホビープログラムコンテストで入選した3人の人物を取り上げる。
後にチュンソフトを設立し、堀井雄二とともにドラゴンクエストの制作を手掛ける中村光一、最強将棋ソフトのプログラマーとして名高い森田和郎、そして当時のパソコン少年に絶大なる影響を与えた人物について。


エニックスの挑戦を受け、スタープログラマーたちは立ち上がった。




中村光一 ――― ゲームに人生を賭けた高校生プログラマー




マンガ ドラゴンクエストへの道(エニックス,1990年)




中村光一は1964年、香川県に生まれる。成績優秀で、将来の夢は医者になることだった。
中学生の頃に『ブロック崩し』(アタリ)や『スペースインベーダー』(タイトー)等のアーケードゲームに熱中。高校入学後は数学同好会に所属し、先輩が所有していた米国製パソコンTRS-80に触れ、プログラムに開眼する。


やがて彼は、自分用のパソコンを手に入れるために、高校はバイト禁止だったがこっそりと新聞配達を始めた。お目当てのパソコンはMZ-80(シャープ)だった。
だが、ようやく購入資金が貯まった頃、パソコン雑誌に掲載されていたゲームプログラムを目にする。




『アイ・オー』1980年8月号(工学社)





『アイ・オー』1980年8月号に掲載された『マリン・エイリアン』と、9月号に掲載された『ギャラクシアン』。どちらも芸夢狂人という人物が投稿したゲームだった。
どうしてもこのゲームが遊びたい。中村は当初の予定を変更し、PC-8001(NEC)を買うことにした
そして念願のマイ・コンピューターを手に入れた日は、徹夜で『ギャラクシアン』のプログラムを打ち込んだ。


ほどなく中村はパソコン雑誌に掲載されたゲームプログラムを片っぱしから入力し、遊び尽くした。
やがて、自分でもゲームを作ってみたいと思うようになり、手始めにマシン語の16進数をテンキーだけで入力できるようにするプログラム『Monitor-2』を作り、『アイ・オー』に投稿したところ、掲載されて原稿料が届いた。その額は2万円ほど。
プログラマー・中村光一の記念すべき第一歩である。


次に投稿したのは、ゲームセンターで熱中した『スペースパニック』(ユニバーサル)を、パソコンに移植した『ALIEN(PART2)』。こちらは雑誌に掲載されただけではなく、パッケージのゲームソフトとして市販され、原稿料プラス印税で20万円の稼ぎとなった。


中村の快進撃は続く。
PC-8001上でスクロールを実現するために、より高度なプログラムに挑戦。アーケードゲーム『スクランブル』(コナミ工業)をPC-8001に移植した『PCスクランブル』を、続いて『リバーパトロール』(オルカ)を移植した『リバーレスキュー』を投稿し、両作ともに誌面に掲載、市販され、なんと100万円以上の収入を手にすることになる。
一躍、中村光一の名が全国のパソコンユーザーに知れ渡ることになった。


高校3年生となった中村は、授業中にゲームの構想を練り、帰宅してからプログラムを打ち込むという日々が続いた。そのため、受験生であったにも関わらず成績は急降下。しかし、医者への道は既に諦めていたものの、新たな夢が彼の心に芽生えていた。

ゲームソフトの会社を作りたい。




僕はその頃は東京に行ってゲームソフトの会社を作って、独立するつもりだったんで、全然勉強をしていなかったんです。まわりは一生懸命勉強をしていたんですけど、僕はその隣で「株式会社の作りかた」の本を読んでいました(笑)。あとは麻雀とパソコンに明け暮れる毎日で……。


志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.2』毎日コミュニケーションズ,2000年.






ゲームプログラムの投稿で得た収入で、パソコンをPC-8001からPC-8801に新調し、さらに周辺機器一式を買い揃えた。カラーモニター、漢字プリンター、フロッピードライブ。当時の価格で、占めて100万円ほど。
ちょうどその時期、16ビットの最新鋭パソコン、PC-9801(NEC)が発売された。
さっそく近所にあったNECのパソコンショップに足を運ぶ。喉から手が出るほど欲しいのだが、既に収入は使い果たしていた。そんな彼に、ショップの店長が一枚のチラシを手渡す。

「君なら、これで稼げばいいだろ」

ゲーム・ホビープログラムコンテスト。
エニックスという見慣れない会社が主催しているが、優勝賞金はなんと100万円。
中村は、決断した。


最初はゲームセンターにある『ディグダグ』(ナムコ)をPCに移植して投稿しようと思った。だが、コンテストの応募要項に「作品は、新聞雑誌に未発表で販売流通していないオリジナルに限ります」と書かれている。一応、電話で問い合わせてみたが、移植作品は駄目と言われた。


応募締め切りまで残された期間は1カ月。これまでの投稿作のようなアーケードゲームの移植ではなく、なんとかオリジナルのゲームを生み出さなければならない。四六時中、学校の中でもゲームの内容をひねり出すために頭を悩ませていたが、教室の戸が閉じたり開いたりする光景を見て、ふと、ひらめいた。
そうだ、ドアだ。


アイディアはある。プログラムもできる。だが、それだけでは不十分だ。
これまで中村は一人でゲームを作っていたが、同級生のパソコン仲間である安野(※注1)がキャラクターデザインを手伝ってくれることになった。今度は『ディグダグ』のような愛嬌があるキャラクターが欲しい。中村は絵は不得手だったが、マンガ家を目指していた安野にはお手のものだった。


周りが受験勉強に励む中、ひたすらゲーム作りに没頭する。
確かにコンテストの賞金は魅力的だが、それだけではない。
自分のオリジナル作品が世に受け入れられるか、自分はゲームで食っていけるか。
中村にとって、このコンテストは自分自身を試すための絶好の機会だった。




『ドアドア』を作っていたとき、学校のみんなが血眼になって受験勉強をしてました。自分では、このコンテストに(将来を)賭けようと思ってゲームを作っていて、これが3位以内に入賞しなかったら、ゲームはいったん諦めて、1年間浪人して大学に入ってから人生を考えようと考えていました。


アスキー書籍編集部『みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・PC-6001』アスキー,2005年.






こうして出来上がったのが『ドアドア』である。
ゲームの出来には自信があった。絶対に1位を取れると確信していた。中村は選考結果を心待ちにする。


年が明けた1983年の1月。エニックスから連絡が届いた。『ドアドア』が入選したのだ。


だが、結果は優秀プログラム賞……惜しくも2位だった。




ドアドア(PC-8801版)


週刊少年ジャンプ 1983年 NO.14 3月21日号(集英社)


アイ・オー 1983年3月号(工学社)




コンテストで最優秀賞を勝ち取ったのは、『森田のバトルフィールド』
このゲームの作者である森田和郎も、中村と同様に、名うてのプログラマーとして全国のパソコンユーザーの間で名が知れ渡っていた。





森田和郎 ――― アルゴリズムに拘り続けた職人プログラマー




森田和郎は1955年、富山県に生まれる。本業は医学生で、将棋、囲碁、オセロの段位を保有する一方、パソコンにも熱中し、プログラムの講師を努めることもあった。自作のオセロゲームも制作していたが、当初は投稿はしていなかったようだ。だが、そんな森田を奮起させる出来事が起こる。


1980年よりパソコン誌『ASCII』(アスキー)で、コンピュータ・オセロのトーナメント戦「マイクロオセロリーグ」が開催されていたが、第3回でアメリカのオセロソフト『リバーシ・チャレンジャー』が優勝した。
その結果を見た森田は「日本のプログラマーはだらしない」と一念発起し、『森田オセロ』を開発して第4回マイクロオセロリーグに参戦。初出場ながら『リバーシ・チャレンジャー』を破って優勝した。
『森田オセロ』はパッケージソフトとして市販され、森田の名がパソコンユーザーに広まることになる。


エニックスのコンテストの2年後の記事だが、森田の人柄や創作姿勢を伺わせるインタビューがあるので、ここで紹介したい。




もともとボクは、ゲームデザイナーじゃなくて、ゲームプログラマーだと思うんですよ。ゲームをデザインするのはあまり得意じゃありませんからね。ボクはプログラムテクニックで勝負するタイプなんです。できないと信じられているコトをしてみるのが趣味なんですね。だから、それが話題になってウケたりすると、ほんと嬉しいですね。

(中略)

まず、プログラムの書き方にはちょっと工夫してますよ。たとえばループをほとんど使わないとかね。ループというのはBASICでいえばFOR ~ NEXTにあたるんですけど、あれはずいぶん馬鹿らしいですよ。回数をカウントして、ジャンプするわけですからね。ものすごい時間のロスなんです。たとえばZ80系のマシン語では、この2つの命令だけで13クロックかかります。時間にして、約3マイクロセカンドなんですが、これはかなり大きな数字なんです。100万回実行すれば、3秒も違ってくるわけですからね。まァ実生活レベルでは問題にならない程度の遅れですが、ゲームとなると致命的ですね。やはりアクションゲームの場合は速くないと意味がないですから、その点を切り詰めないと、どうしようもないんですよ。速くするためのアルゴリズムを、つきつめて考えないとね。

(中略)

ボクは元来、目立ちたがり屋の方ですから、みんなができない、できないといっていることに興味を持つんですよ。どうにかして鼻を明かしてやろうってね。たとえば、“ポールポジション”タイプの高速スクロールゲームですけど、これなんかも、やってできないことはない。いや、おそらく可能だと思いますよ。X1なんかのマシンを使えば、比較的簡単に作ることができると思うんですよね。ボクがあえて作ろうとしないのは、他の誰かがそのうち作るだろうと思っていたせいもあるんですが、……、でも、どうして誰も作らないんでしょうね。ほんと、不思議ですねェ。


「スターゲームデザイナー登場 森田和郎、29歳が辿るアルゴリズムの軌跡」『月刊ログイン 1985年3月号』アスキー.






自らもHAL研究所のプログラマーだった岩田聡(前任天堂社長)は、プログラマーを「蛇口」に例えていた。
ゲームデザインのアイディアは「水」である。だが、「蛇口」が小さいと水は流れていかない。
どれだけ優れたアイディアがあっても、プログラマーに力量がないと、つまらないゲームしかできない。


森田は「できない」と言われていることをやって見せるのが楽しいという。
言わば、無尽蔵の水を流せる「蛇口」なのだ。
森田は、不可能を可能にする、生粋のプログラマーであった。


黎明期のパソコンゲーム制作で名を馳せたプログラマーは、徐々にソフトのプロデュースや会社経営に軸足を移し、プログラムからは身を引く人物が多かったが、森田は後年も第一線のプログラマーとしてゲーム制作に携わっていた。森田がコンピューターゲームに遺した影響は大きい。


話をコンテストに戻そう。
森田は医学生であり、ゲームの制作者となる夢を持っていたわけではない。
彼がコンテストに応募したのは、エニックス側の依頼によるものだった。エニックスは応募作品を集めるために、パソコン誌の投稿経験者や有名プログラマーの自宅を訪ねていたのである。
森田は依頼に応じ、短期間で『森田のバトルフィールド』を完成させる。
だが、森田にとってゲームの出来は必ずしも満足がいくものではなかった。




森田のバトルフィールド(PC-8801)


週刊少年ジャンプ 1983年 NO.14 3月21日号




あれは時間がなくてね、実は僕としては不本意な作品なのですよ。コンテストの1カ月ぐらい前に、エニックスの人たちが来て、作ってくれと言われて。食事もおごられてしまった(笑)。見た目は普通だけど、思考がちょっとお粗末だったなあと。


アスキー書籍編集部『蘇るPC-8801伝説』アスキー,2006年.




このゲームで新しいのは、画面のスクロールと駒の動きかたかな。またヘックスではなく四角形を使ったマスの表示も考えましたね。でも、ゲーム自体の出来に関して言えば、ちょっと不満なんですよ。とくに思考ルーチンなどといえたシロモノじゃない。とにかく作る時間がなかったんです。ほんとなら、みんなボツにして、新しいものを作りたかったくらいです。最初にゲームのためのコンストラクションを作って、それからゲームデザインに取りかかったんですけれど、どうもスクロールルーチンなんかに時間を取られちゃいましてね。ゲーム本体は、2、3日で作ったのかな? 地図もなかば適当に駒なんかを配置して、エニックスのコンテストに間に合わせたわけです。ほんとは、もっと凝りたかったんですけどね。


「スターゲームデザイナー登場」月刊ログイン 1985年3月号






不満が残る出来ではあったものの、アクションゲームが応募作の大半を占める中、数少ないウォーシミュレーションゲームということもあり、コンテストで見事に最優秀賞を勝ち取る。
しかし、惜しくも惜敗を喫した中村は、『森田のバトルフィールド』の欠陥を見抜いていた。




(最優秀賞を逃して)ショックでしたよ。あとで森田さんのゲームを遊ぶことになるんですが、じつはあのゲームには致命的なバグがあったんですよね。それを見つけてしまって、ショックは倍増でしたね。


志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.2』






では、 なぜ『ドアドア』が最優秀賞を逃したのだろうか。
後に中村がエニックスに尋ねたところ、「(主人公のチュンくんが)腰をひょいっと上げるしぐさが『ドンキーコング』に似ている」と言われたそうだ。


ともあれ、授賞式の翌月、コンテストに入選した12作品がエニックスよりパッケージとして販売された。
当時のパソコンゲームは3千本も売れればヒット作と呼ばれる時代だったが、中村の『ドアドア』は約1万6千本を売り上げた。『森田のバトルフィールド』を上回り、12作品の中ではトップの売り上げだった。
中村は、ソフトの売上によってコンテストの雪辱を果たしたわけである。


このコンテストの準備から表彰式に至るまでをNHKが取材し、後日ドキュメント番組として放映(※注2)したのだが、放映前にエニックスは「今度NHKでパソコンゲームの番組がある」と販売店にハガキを送りつけていた。
もちろん放映後に「テレビで紹介されたゲームソフト」の注文が殺到することになる。


間もなく、第2回ゲーム・ホビープログラムコンテストの開催が告知される。
1983年9月に結果が発表され、宮田康宏の『FANFUN』が最優秀プログラム賞を勝ち取った。彼は中村光一と同じく、大学に入学したばかりであった。
入賞者13名中、半数は10代の少年たちだったが、若手に混じって、パソコンユーザーによく知られている名前があった。

芸夢狂人である。





芸夢狂人 ――― マイコン少年の憧れの的だった、ゲームプログラマーの「巨人」





週刊少年ジャンプ 1983年 No.49 11月21日号(集英社)




芸夢狂人(げいむ・きょうじん)は1953年、長野県生まれ。医学生の傍ら自作のゲームを開発し、当初はパソコンショップに持ち込んで買い取ってもらっていたが、パソコン雑誌『アイ・オー』にゲームを投稿するようになってからは、常連投稿者として名が知られるようになる。




最初にソフトを持ち込んだのはツクモ電機でした。1本目は1万5000円で買い取ってもらったと思います。
その後、何本か持ち込んでトータルでは41万円ほどでした。もっと後の方になると、店内に置いてある商品のプリンタやパソコンをもらうなど現物支給になりました。
I/Oへ投稿を始めてからもツクモさんとは、しばらく繋がりがあったと思います。I/Oの方が印税制で、売り上げに応じてお金がもらえると分かってから、ツクモさんは辞めました(笑)


アスキー書籍編集部『蘇るPC-8801伝説』


初期はアーケードゲームの移植を投稿していたが、徐々に独自のアイディアを盛り込むようになり、『スネークワールド』(1981年)以降はオリジナル作を発表するようになった。
芸夢狂人が『アイ・オー』に投稿したゲームは、『マリンエイリアン』(1980年7月号)から『レーダースコープ』(1981年11月号)に至るまで、わずか1年半で10作品を数えた。


当時は「ゲームデザイナー」という言葉が無かったが、おそらく芸夢狂人は、日本で初めてコンピュータ・ゲームの制作者として周知された人物ではないだろうか。(『ゼビウス』で遠藤雅伸が有名になったのは1983年)


ゲーム・ホビープログラミングコンテストが告知されていた時期、芸夢狂人は医師の国家試験に専念するため、『アイ・オー』への投稿は引退していた。
しかし、コンテストが開催されることは耳にしていた。
コンテストの優勝賞金は100万円。常連投稿者の血が騒ぐ。
だが、主催しているメーカーが「なんか怪しそう」だったので、応募を見送った。


当時は告知通りに賞金を支払わず、応募作を安く買い叩くようなメーカーがあった。社長の福嶋が危惧していた通り、エニックスもそのような悪徳メーカーだと芸夢狂人に思われてしまったのだ。


しかし、第1回のコンテストの入賞作は市販されて店頭に並び、好調なセールスを記録していた。
パッケージには作者の名前と顔写真が載っている。ソフトの売り上げに応じて印税も支払われているようだ。パソコン誌に広告も載るようになった。秋には、2回目のコンテストが開催されるらしい。
もはや、芸夢狂人に迷いはなかった。




――その後にエニックスの「ゲームホビープログラムコンテスト」(1983年)に応募されて、『芸夢狂人の宇宙旅行』が入賞して復活を果たされましたね。

コンテストの2回目ですね。1回目のときは、「エニックスって聞いたことのない会社だな」と思っていました(笑)。
2回目は自分から応募したと思います。でも、後でエニックスの人に聞いたら「出てくれなかったら、お願いしようかと思っていました」と言ってました。


アスキー書籍編集部『みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・PC-6001』






かつて中村光一は、芸夢狂人が投稿した『ギャラクシアン』と『マリンエイリアン』を見てPC-8001を購入し、夢中になってプレイした。
芸夢狂人は、言わば中村の師とも言える存在である。
その男が、中村たちの働きに触発され、自らの意志でゲームを応募してきたのだ。


才能は、才能を惹きつける。


こうしてエニックスの元に、アマチュアのスタープログラマーたちが集結した。




(続く)


エニックス ゲーム・ホビープログラムコンテスト(後編)
http://dragonquestage.blog.fc2.com/blog-entry-92.html




(注1)
この同級生の「安野」は、後にドラゴンクエストのCGデザインを担当した「安野隆志」氏だと思われますが、裏付けはとれておりませんので明言は避けます。「安野隆志」氏が中村光一の同級生であることは確実ですが、高校の同級生か、大学の同級生かは判明していません。

(注2)
NHKの番組名を確認するために1983年初春の新聞のテレビ欄を参照しましたが、コンテストの開催時期と番組のタイトルから察するに『ルポルタージュにっぽん マイコン頭脳買います』(1983年1月20日放送)かと思われます(コンテストの表彰式は1月16日)。ただし番組の内容は未確認です。

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