エニックス ゲーム・ホビープログラムコンテスト(前編) 全てはここから始まった





あなたは、ニュースター第1号

今やアメリカでは、ベストセラー・ゲームを
プログラムした“若きソフトウェアのニュースターたち”が
続々と誕生し、印税だけで巨万の富を得ている。
彼らは、人気ロック歌手と同様にファンを引付け、
若者たちの憧れの的になっている。
日本のコンピューター・ゲーム界も同じような
現象が起きる。あなたがプログラムしたゲームが、
あなたの名前と共に、日本中を魅了することになるのだ。

さあ、その第1号。
このコンテストに全力で賭けてみないか。

賞金総額300万円
最優秀プログラム賞……100万円(1名)
優秀プログラム賞……50万円(2名)
入選プログラム賞……10万円(10名)


募集期限=昭和57年12月20日
募集内容
a)ゲームホビーに限ります。
b)作品は、新聞雑誌に未発表で販売流通していないオリジナルに限ります。
c)使用機種は、パソコン・マイコンと呼ばれているものすべてOKです。
応募方法
a)個人、グル―プどちらでもけっこうです。
b)所定の申し込み書と、プログラムが入っているテープ又はディスケットを添えて、お送りください。
尚、申し込み書は主なマイコンショップ店頭で
または、下記へハガキもしくは電話でご請求ください。
〒160 東京都新宿区西新宿7-15-10 電話03(366)4251(代)
(株)エニックス プログラムコンテスト事務局(高野・千田まで)
c)応募作品の著作権は当社の帰属となりますが、当社規定に従い印税をお支払いいたします。
発表
a)昭和58年1月15日 朝日新聞紙上
b)昭和58年2月1日以降に発売される主なマイコン専門誌上。
c)主なマイコンショップ店頭
※入賞者には直接通知いたします。

主催=(株)エニックス




当時のパソコン業界では全く名が知られていなかった新興企業・エニックスが主催したこのコンテストは、のちにドラゴンクエストの中核となる人材である堀井雄二、中村光一の両名を発掘するという見事な成果を収める。
それのみならず、このコンテストはコンピューター・ゲームの制作者を尊重するという点において、日本のコンピューター・ゲームの発展に多大なる影響を与えた。
当エントリーではこの『エニックス ゲーム・ホビープログラムコンテスト』を参照し、ドラゴンクエストに至るまでのエニックスの歩みとコンテストの入賞者たちに焦点を当てて、その功績を振り返る。




エニックスの歩み ――― 不動産、寿司、そしてゲームソフトの世界へ




はじめに、創業者である福嶋康博の歩みとともに、エニックスが設立されるまでの経緯を振り返る。


福嶋康博は1947年、北海道旭川市に生まれる。
日本大学理工学部を卒業した後、アメリカ、インド、東南アジア等を放浪。帰国後、公団住宅の募集情報をまとめた会員制情報誌の発行を思い付き、1975年に「営団社募集サービスセンター」を設立。情報誌は評判を集め、やがて発行部数は3万部、社員数は20人を超えるまで成長した。しかし、「ビジネスの先が見えた」という福嶋は、不動産とはまったく異なる新たな事業を模索する。


そして目をつけたのは、低価格路線の寿司チェーン店だった。ところが、人件費を削減するためにシャリを型押しする機械を導入したものの、握りの力が弱く、機械で型押しした後に人間が握り直さなければならなかった。これではコストがかかって勝負にならない。開店3ヶ月で撤退を決めた。


次のターゲットは、パソコンのビジネスソフト。手始めに東芝の特約店になり、顧客管理ソフトの営業を始めた。最初は全く売れなかったが、徐々にノウハウを会得し、特約店コンテストの営業成績で1位をとるまでになった。しかし福嶋は、ハードウェアの性能が貧弱だったため使い勝手が悪いビジネスソフトよりも、ホビー分野のソフトの方が将来有望だと判断し、コンピューターゲームの企画、販売に乗り出すことになる。


こうして1982年に、エニックスが誕生した。
場所は「営団社募集サービスセンター」のオフィスの一角。社長の福嶋を含めて、わずか3名からのスタートである。




月刊ログイン 1983年6月号(アスキー)





会社を設立してみたものの、社員は誰もゲームを作ることができない。肝心のゲームを用意しなければ、事業はスタートできない。それでも福嶋に迷いはなかった。




では、どうするか? 私にとっては簡単なことだった。
「才能のある人材につくってもらおう」ということである。ゲームソフトというと簡単に考える人もいるかもしれないが、実は、芸術と同じで際立った才能の持ち主でなければつくり得ないという特徴がある。安易に社内制作を考えるよりも、才能のあることが確実にわかっている人材に制作を委ねたほうが外れが少ないはずである。

(中略)

こうしたクリエイティブな仕事をする彼らに共通する特徴は束縛できないということ。縛りつけてしまっては、決してクオリティの高い仕事をしてくれない。その面からいっても、才能のある人間を社員として拘束するより、フリーランサーとして高く遇するほうがいいに決まっている。


福嶋康博『マイナスに賭ける』KKベストセラーズ,1998年.





「作れる人を探せばいい」
いたって単純明快な論理である。福嶋はゲーム制作者を社員として雇って月々の給与を支払うのではなく、外部の制作者が作った個別のゲームに対して売り上げに応じて印税を支払う形式をとった。ゲームを単なる「製品」としてではなく、小説や絵画のように「作品」として扱う意図があった。


それでは、才能のある人材を発掘するためにどうするか。たった3人でゲームが作れる人材を探し求めるのは、あまりにも効率が悪い。むしろ、人材が向こうから集まってくるような機会を設ければいい。そのための格好の手段は、ゲームソフトのコンテストである。
既にパソコン雑誌で同様のコンテストは行われていたが、賞金は数十万円程度。同様の賞金を設定してもインパクトが弱い。そこで、優勝賞金は100万円。優秀作品50万円、入選10万円。賞金総額は300万円という破格の予算を用意した。これなら、日本全国から才能が溢れる人材が集まってくれるに違いない。


キャッチコピーは「あなたは、ニュースター第一号」


コンテストを宣伝するために、福嶋はさまざまな手段を講じた。
パソコン誌に広告を出す。秋葉原のパソコンショップを訪ね、ポスターを貼ってくれるように依頼する。全国各地のパソコンショップに電話をかけてポスターと応募書類を郵送する。さらに新聞社や出版社に出向き、コンテストを紹介してくれるように要請する。


ところが、コンテストの期日が迫ってきたにも関わらず、いっこうに応募作品が集まらない。設立したばかりで知名度が全く無い会社が応募作品を募ったところで、やはり相手にはされないのだろうか。
確かにエニックスが用意した賞金は高額だったが、パソコンユーザーには額面通りには受け取られていなかった。。


当時、アマチュアのプログラマーが自作のゲームソフトを販売するルートは主に持ち込みであり、現金の買い切りであった。
自作ゲームソフトをテープやディスクに入れてパソコンショップに持ち込むと、その場で数千円程度の現金が支払われる。そのゲームをショップは3000円程度でパッケージにして販売するのだが、どれだけ売れても、ゲームの制作者が手に入れる金額は、最初に支払われた数千円のみ。そして、ゲームを持ち込んでいたアマチュアのプログラマーは、大半が10代の少年達だった。金銭感覚に疎い彼らは、ショップにしてみれば都合の良い「カモ」だったに違いない。
そのような状況を危惧する声が、当時の新聞記事に残されている。




小中学生はいまやゲームソフトの重要な開発戦力になっている。ゲームソフトの市場は現在月間、6~7億円。間もなく年間百億円にふくらもうという勢いだが、このかなりの部分が子供の頭脳の産物なのだ。マイコンショップにとって子供相手のゲームソフトの売買はぼろい商売である。ソフト一本を十万円で買い取ったとして、千巻も売れば一本当たりのソフト原価はたったの百円。店頭で売る時はこれが一巻四千円と、ダブルデラックスクラスの音楽テープと同じ定価となる。

パソコンマニア向けの雑誌の懸賞募集。対象はゲームソフト、一等賞金は百万円を越す。あるパソコンショップの社長は「また子供のしりをたたいて」とはき捨てるように言った。「まず、一等賞は該当作なし、ということになるだろう」。子供たちからゲームソフトをごっそり集め、目ぼしいものをすべて佳作ということにして当の子供と個別均衡、一つ当たり十万円から二十万円で買い取って、法外な価格の商品にするという手口が多いのだという。


『1982年8月25日 日経産業新聞』







いかに安くゲームプログラムを手に入れるか。いかにアマチュアを利用して開発コストを削減し、利益を上げるか。
パソコンユーザーたちは、このような手口をすっかり見抜いていた。だから、コンテストで高額な賞金を掲げるだけでは相手にされなかったのである。
賞金で「子供の尻を叩く」ことになった福嶋も、やがて、そのような状況に気づき始めた。




考えてみればエニックスという会社を誰も知らないわけで、コンテストの名を借りて、ゲームソフトのパクリが行われるのではないかと疑われても仕方がなかった。パソコンゲームの勃興期だけに、うさんくさいゲームソフト会社がいくつかあったからである。
しかも、当時は優勝賞金30万円と謳っていたコンテストでも、実際には「優勝者該当なし」といって、優勝賞金が支払われなかったこともある。業界の実体を知っているゲームづくりマニアにとって、エニックスという聞いたことのない名前の会社が賞金をちゃんと支払うとは考えられなかったのだろう。


福嶋康博『マイナスに賭ける!』




何よりもまず、パソコンユーザーたちの信用を獲得するのが最優先課題だった。
ふたたび福嶋たちは、コンテストの宣伝に奔走することになる。


東京のパソコンショップだけではなく、雑誌に掲載されているパソコンショップ一覧に片っぱしから電話をかけてコンテストを宣伝し、客にもアピールしてくれるように依頼する。全国のパソコンユーザーが集うパソコン同好会にコンタクトをとり、応募を依頼する。パソコン雑誌にプログラムを投稿したことがある人物の自宅を訪問して応募を依頼する。ポスターを貼ってもらったショップにも、念押しで電話をする。
応募を依頼する時は、次の言葉を必ず付け加えた。


「優勝者は応募者の中から必ずだす。賞金もキッチリ支払う」


締め切り一週間前の応募作品はわずか20程度だったが、締め切り間近になるとみるみる増えはじめ、最終的には300に達した。


この中から、最優秀作品1件、優秀作品2件、入選作品10件を選ばなければならない。目が肥えたパソコンユーザーに受け入れられるゲームを選出できなければ、せっかくの努力も水の泡である。
福嶋の右腕だったエニックス社員、千田幸信(現 スクウェア・エニックス取締役)が当時を振り返る。




「福嶋と私と、それとすでに退職した者と、その3人ですべての作品をプレイしてみて、それで審査を行いました。実際にプレイしてみると、作品ごとにかなりレベルに差があることは素人目にもわかりましたので審査に苦労したという記憶はないですね。
ただ、ゲームとしての面白さは、ぼくなんかは当時はよくわからなかったというのが正直なところです。今思うと、奇をてらった作品が面白いんだみたいな感覚がありましたね」


滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』青春出版社,2000年.






ある程度候補作を絞り込んだ時期、ひとりのフリーライターがエニックスに取材に訪れた。
以前、千田は『週刊少年ジャンプ』の編集部を訪ね、コンテストの取材記事を掲載してくれるように依頼し、担当者にコンテストの応募書類を手渡してきた。
『ジャンプ』に記事を書くためにやってきたと言うそのフリーライターは、机の上に整然と並ぶ十数台のパソコンに映しだされたゲーム画面をゆっくりと眺めた後、ひとつのゲームを指差して、言った。

「これ、ボクのですよ」

彼の名は、堀井雄二である。





フリーライター 堀井雄二 ――― 取材と受賞の一人二役





マンガ ドラゴンクエストへの道(エニックス,1990年)


アイ・オー 1983年3月号(工学社)




1982年の春、堀井は新聞に掲載されていたパソコン特集の記事を見て興味を抱き、NECのパソコン「PC-6001」を購入する。定価は89,800円。安価なパソコン入門機として人気を博していた。
資料整理やシナリオプロットの作成に役立つかもしれないと思って使ってみたものの、わずか3日で仕事に使うのは諦めた。仕方なく市販されているゲームを買い求めてプレイしてみたところ、仕事そっちのけでハマることになる。

特に熱中したゲームは『スタートレック』(米国製のソフトで、複数のメーカーがクローンソフトを販売していた)や『信長の野望』(光栄マイコンシステム)などのシミュレーションゲーム。これらのゲームはコピープロテクトが無く、簡単にプログラムのコードを表示できたため、データの数値をいじってズルしたり、ゲーム内でチャルメラのメロディーを流すなど、独自に改造を施して楽しんでいた。
こうして堀井は徐々にプログラムを習得していく。




ジャーン! ついにボクもパソコン(パーソナル・コンピューター)を買ったもんね。
そのせいで、仕事がぜんぜん手につかない。ヒマがあればプログラムを組んでいる。もうすでにゲームを3つも作ってしまった(と言っても、アホみたいに単純なゲームしか、まだ作れんけど…)。
いや~、しっかし、自分の思いどおりにパソコンが動いてくれた時の感激。じ~~ん。
また、プログラムミスがあった時は、「ピッ、エラー・イン150」と、ちゃ~んとパソコンが教えてくれる。
うーうー、かわいいやっちゃのぉ…。
と、いうわけで、ついに、このコーナーの背番号制も、データにしてパソコンに入力してしまった。


「ゆう坊のでたとこまかせ」『月刊OUT 1982年4月号』,みのり書房.






プログラム言語のBASICを習得し、簡単な占いプログラムを作成して友人に見せて驚かせる事もあった。やがて堀井は外出時もBASICの入門書を持ち歩き、パソコンゲームの面白さを熱心に布教するようになる。そして、自分でも本格的なゲームを作ってみたいと思うようになった。


最初に作ったのはゴルフゲーム。グリーンの上を点が移動するだけの単純なゲームである。次にゲームセンターにあったテニスゲームをパソコンで作ろうと決めた。だが、入門用のプログラム言語であるBASICは処理速度が遅く、動きがあるゲームには向かない。そこで堀井は高度なプログラム言語であるマシン語を導入し、専門書を片手に16進数のプログラムを打ち込んでいった。


人間とコンピューターの対戦で、コンピュータに勝たせるのは簡単である。プレイヤーの行動に応じて正確に反応させればいい。しかし、適度にミスをするように難易度を調整しなければ、ゲームとして成立しない。コンピューターに人間臭さを出すために試行錯誤を重ねた。
こうして出来上がったのが、『ラブマッチテニス』である。
自作ゲームが出来たのがよほど嬉しかったのだろう。記事を担当していた投稿コーナーで、読者にこのゲームソフトをプレゼントしている。




なんと、ボクのつくったテニスゲーム(PC6001・32K用)をプレゼント!
コートは3次元処理。女の子を動かして、ラケットを振って、ボールを打つといった、リアルタイムゲームです(ようするに、ゲームセンターにあるのと、ほぼ同じ。いやー、あれにコッちゃって、ついに自分でつくってしまったわけです)。
女の子の絵の出方。ラケットを振る一連の動作。タイミングによるボールの角度計算など、ほとんどがマシン語処理のため速度的にも、いちおう満足できるものになったと思います(いやー、このためにどんなだけ苦労したことか…。くくく)。
で、欲しい人は『でたとこまかせ』に出すハガキに“プレゼント希望”と書いてきてください。なんと5名に当たります。
これはボロい!


「ゆう坊のでたとこまかせ」『月刊OUT 1982年12月号』






ちょうどその頃、『週刊少年ジャンプ』編集部の鳥嶋和彦から、エニックスという会社のゲームコンテストの取材を依頼され、参考資料としてコンテストの応募書類も手渡された。
堀井も既にそのコンテストの事は知っており、応募しようか迷っていたが、パソコンショップに応募書類を取りに行くのが面倒だったので、半ば諦めていた。
しかし、書類が手元にあるのなら応募しない理由はない。
ダメもとで、完成したばかりのテニスゲームを送ってみた。


後日、堀井の元にエニックスから連絡が入った。

「コンテストの応募作品が集まりましたよ」

そして、西新宿にあった小さな会社、エニックスに取材に赴く。その場で、馴染みがあるゲーム画面をふたたび目にすることになる。




自分が作って遊んでたのを応募して、そんなことは言わずに「(応募作品が)集まりましたよ」という連絡があってエニックスに取材しに行ったんです。当時は雑居ビルの一室で、スタッフも三人しかいなくて、十三台のマイコンが並んでるだけの会社でしたね。「これが候補作です」と言われて見たら「これ(『ラブマッチテニス』)、ボクのですよ」「そうなんですか!?」って。最優秀賞の一本と優秀賞二本のほかになった、入選作に入っていたんですね。


「堀井雄二、ファミコン神拳を語る」『超超ファミコン』太田出版,2014年.






1982年1月16日。紀尾井町のホテルニューオータニで、第1回・ゲームホビープログラムコンテストの授賞式が開催された。
堀井はその模様を取材すると同時に、受賞者の一人として表彰され、自らの作ったゲームを『週刊少年ジャンプ』で紹介することになった。





週刊少年ジャンプ 1983年 NO.14 3月21日号(集英社)





テニスの対戦相手は3人で、キャラによって難易度が変わる。キャラ毎に「よわい」「ふつう」「つよい」と説明するのではなく、各人の特徴に合わせたメッセージが表示され、「人間臭さ」が演出されている。このようなところにも、ライターである堀井の持ち味が生かされていた。
なお、他の受賞者には「中村光一君」や「森田和郎氏」のように敬称が付けられているが、この『ラブマッチテニス』に限っては敬称略となっている。自分で作ったゲームを紹介し、さらに受賞者として自分自身を紹介するのは照れ臭かったのだろう。
だが、堀井にとって受賞は想定内の出来事だった。




本当のことをいうと多少自信はあったんですよ。『6001』ってアマチュア向けのパソコンだったので、それ用に市販されているゲームなんて当時ろくなものがなかったですから。ぼくはマシン語を使ってキャラクターがちゃんと表示されるようなゲームを作ったんですが、そういうのって当時はすごく少なかった。ですから、ひょっとしたらいけるんじゃないという気持ちはあったんです。


滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』





堀井の本業はライターである。受賞で浮かれているヒマは無い。他の受賞者たちを取材し、記事のネタを探さなければいけない。
受賞者の中に、10歳以上も歳が離れた少年がいた。彼は香川県在住の高校3年生。パソコン雑誌にゲームプログラムを何度か投稿しており、パソコンユーザーの間では既に知られた存在だった。
彼は『ドアドア』というゲームで、優秀プログラム賞を勝ち取っていた。


数日後、堀井は週刊少年ジャンプ編集部を訪れ、担当編集者の鳥嶋に取材記事を手渡しつつ、自らが受賞したいきさつを報告した。きっと、驚くに違いない。
しかし、鳥嶋からは「あ、そうなの」と、つれない言葉しか返ってこなかった。
鳥嶋にしてみれば、ともにゲームセンターに入り浸る友人であった堀井が作ったゲームが評価されたのは、別に驚きに値しないことだったのかもしれないし、コンテストの記事よりも、自分が担当するマンガ家、鳥山明のことで頭がいっぱいだったのかもしれない。


授賞式の翌月、コンテストで選出された12作品がエニックスから発売されることになった。
堀井は授賞式の顛末や、自分の作ったゲームが市販されること、そしてコンテストで出会った高校生プログラマーの事も、担当していた読者投稿コーナーに書き残している。








ジャーン♪
つ、ついにボクの作ったマイコン用のゲームソフトが市販化されることになった。
ものは、このページでプレゼントにも出したことのある“テニス・ゲーム”なのだ。
たまたま、マイコンのゲーム・ソフトコンテストがあり、それに応募したところ入選。んで、賞金10万円をもらってしまった。そのうえに商品化。いや~、人間、なんでもやってみるもんですなぁ…。
ちなみに、このコンテストで2位50万円の賞金を手にしたのは、高3の中村光一君。彼はすでに、マイコンで200万円以上もうけているという香川県在住の高校生である。えらいというかすごいというか。
その他、単なる入選で10万円をもらった高1の子や高2の子もいて、ボクなどは、かなりオジンの部であった。恥ずかしいなぁ…。
(中略)
そして、PC6001を持っているいい子たち。『ラブマッチ・テニス』(発売元エニックス・2800円)をよろしく。


「ゆう坊のでたとこまかせ」『月刊OUT 1983年4月号』





高3の中村光一君。

後に彼とともに『ドラゴンクエスト』という傑作を産みだすことになるとは、この時の堀井は夢にも思わなかっただろう。


(続く)


エニックス ゲーム・ホビープログラムコンテスト(中編)
http://dragonquestage.blog.fc2.com/blog-entry-91.html


関連記事
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

コメント

コメントの投稿

非公開コメント


(この一行は、各ページ下部に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)