制作者の発言で振り返る『ドラゴンクエスト2への道』






当エントリーでは、堀井雄二、中村光一ら制作者の発言を引用し、「ドラゴンクエストII」の制作過程のエピソードを紹介する。特に中村光一にとってドラクエIIは不満が残る出来であったらしく。開発時間が足りず、チュンソフト内で軋轢が生じ、相当なプレッシャーの中で制作され、発売から十数年後に行われたインタビューでも「いまだに夢に見る」と、苦悩の跡が伺える発言をしている。

一方「ドラゴンクエストII」は難易度の高さが度々話題になるが、ナンバリングの中では特に印象に残っているタイトルとして、今も根強い人気を誇っている。制作者にとって不満が残るゲームが、今だに多くのプレーヤーのを惹きつけているのは何とも皮肉な話である。

中村をはじめとする制作者の苦闘を通して、今一度、「ドラゴンクエストII」という傑作ゲームを異なる視点から眺めて頂ければ幸いである。






ドラゴンクエストII 序曲――前作の反省と開発のスタート


中村や堀井にとって、『ドラゴンクエスト』の売れ行きは決して満足できるものではなかった。
中村は、このファミコン初のRPGが登場したとたん、大きなブームになるだろうと考えていた。なにしろ、『ドラクエ』の登場を前に、『少年ジャンプ』でのPRやラジオでの紹介など、ファミコンソフトとしては万全の販売体制が取られていたのである。
しかし、『ドラゴンクエスト』はそこそこの売上を示したものの、決してファミコン界全体に評価されたわけではなかった。さすがに、RPGという新しいジャンルをたった一本のソフトで根づかせることはできなかったのである。

彼にとって、『ドラゴンクエスト』は満足できる仕上がりではなかった。
たとえば、『ドラクエ』ではプレイヤーはキャラクターひとりしか操作することができない。中村が目標にした「ウィザードリィ」お面白さは、六人のキャラクターをプレイヤーが自由に操作することではじめて達成できるものである。その点からすると、「ドラクエ」は、ようやく目標のとば口にたどり着いたにすぎなかった。

Iをつくる段階で切り捨てた要素は数多かったので、IIでそのどれを取り入れるかを検討するのに長い時間がかかった。
とにかく、システム的にはパーティプレイの要素を入れること、シナリオ的には「出会い」を演出することだけは絶対条件だった。これらの要素を入れ込んだ上で何かができるか、中村と堀井はIの反省点を洗い出しながら打ち合わせを続けた。
こうして作業を始めていたある日、エニックスの千田(幸信・DQのプロデューサー)が連絡をよこした。
「もう『ドラクエII』の開発、始めてるんだね?」
中村が開発が始まっていることを告げると、千田は一つの要望を伝えた。すなわち、発売日を決めさせてくれと言うのである。中村はなんの気なしにその日付を了承したが、あとで死ぬほど後悔することになった。


多摩豊『テレビゲームの神々』光栄,1994年.





『週刊少年ジャンプ '86年50号('86年11月11日発売)』より。当初の発売予定時期は12月下旬であったが、翌年の1月26日に延期された。




遥かなる旅路――3人パーティーに決定

いうまでもなく、初代『ドラゴンクエスト』は、ファミコンユーザーというRPG未経験者にむけた入門用ゲームであった。
このゲームを足がかりに、多くの人々にRPGの魅力を知ってもらい、その段階を経て、より高度なRPGに挑戦してもらおうという意図が、スタッフ一同にあった。
とすれば、次の段階としての『II』は、やはりパーティープレイでなくてはいけない。
なぜなら1対1の戦闘は理解しやすく入門用としてはもってこいだが、反面、どうしても戦闘が単調になってしまうという宿命にある。
戦闘が単調だと、レベルをあげるという作業は苦痛でしかない。
複数対複数にすれば、それだけ戦闘がバラエティーに富み、いろんな作戦が必要になってくるのだった。
なかには、これを「めんどくさい」と思うプレイヤーもいるかもしれない。しかし、RPGに魅せられた人には、その「めんどくささ」が「楽しさ」につながるはずだ。
パーティープレイ採用が決定した!

1対1の戦いから、いきなりパーティープレイにしたわけである。せめて "見た目" でもそれがわかるようにしなければ、あまりに不親切というものだ。と、こう考えたわけ。
で、画面表示には当然ファミコンのハードの問題がからんでくる。
ファミコンのスプライトは横に8つ(『ドラクエ』のキャラの大きさなら4人ぶん)が限界なのだ。それ以上並べると9つめが消えてしまう。
消える所をまわしてチラつかせるという方法もあるが、あまりチラつくとやっぱりしんどいであろう。
ということを考え、パーティーは3人とした。3人であれば、横に並んで町の人に話しかけても合計4人だから表示可能である。


堀井雄二「ドラゴンクエスト2ができるまで(前編)」ファミコン通信 1987年4月17日号






始めから3人パーティーのシナリオが予定されていたのではなく、技術上の制約により3人パーティで進めるシナリオに決められた。仮にドラクエIIが4人パーティーになっていたとしたら、ゲームの印象は全く異なるものになっていただろう。





街の賑わい――鳥山明、ドラクエIIのモンスターデザインを語る


今回、「II」のキャラクター・デザインで、特に大変だったことと言えば、とにかくやたらモンスターの種類が多かったことですね。描いたものが最終的にはコンピューター・グラフィックになるわけですけど、そっちの技術のことはよくわからないし、そのへんの処理はやりますからと言ってくれたんで、あまり気にせずに描きました。原画の微妙なタッチは出ないだろうな、ぐらいのつもりで。

もう、モンスターの名前は全部先に決まってたし、こいつにはこのワザが使える、というような、性格づけもほぼあったんです。あと、“木と人間の合いの子”ぐらいのラフ・スケッチはもらったから、考えるのは割合ラクでしたね。だいたい僕は、ストーリーがあるマンガを描くのが好きというより、絵を描くこと自体が大好きなんです。だから、モンスターを考えたりするのはすごく楽しかった。とは言っても、数が数ですから、いままでの自分のマンガの中で描いてきたものに、ちょっと似ちゃったものもあると思いますけれど。


「鳥山明インタビュー」広告批評 1987年7月号 特集ファミコン大研究



鳥山:ドット絵になった自分の絵を見たあと、自分の絵が画面に現れることを考えて、モンスターのデザインをするようになった。それで、どうせドット絵で見えるんだから、最初からドット絵風に描いたらどうか? と考えて、IIのイラストをドット絵風に描いたことがあったんですよ!
堀井:そうそう、あれは、イラスト見た瞬間に「鳥山さん、どうかしちゃったの?」と、スタッフの目が点になっちゃった。(笑)
鳥山:みんなに考え過ぎだって言われました。(笑)堀井さんに「元の絵でいい」って言われた時にはホッとしましたよ。良かった、その方が描きやすいやと思って。


「メイキング・オブ・モンスター 堀井雄二VS鳥山明 対談」『DRAGON QUEST MONSERS』集英社,1996年.






左画像が、鳥山明が描いてきたドット絵風のモンスター(『DRAGON QUEST MONSERS』に掲載)。結局、「餅は餅屋」というわけで、CGデザイナーの安野隆志(中村光一の高校時代の同級生・チュンソフト創立メンバーの1人)が、鳥山のデザインをドット絵に起こすという流れで落ち着くことになる。




Love Song探して――すぎやまこういち、ドラクエIIの音楽を語る


すぎやま:IIをやる時にね、まず最初の打ち合わせの時に、「このゲームの時代は?」って質問したら、「Iの100年後の世界です」といわれたの。それじゃ、Iより、気持ちポップスよりに作ればいいかな、みたいな感じね。IIIの時は、「Iよりももっと昔の世界です。」といわれたから、今度はもう、徹底的にクラッシックにしちゃった(笑)


「すぎやまこういちインタビュー」『ドラゴンクエストIV マスターズクラブ』JICC出版局,1991年.



――特徴的なのは、名前入力のBGMがいまとは違ってポップな曲調で、タイトルも「LOVE SONG探して」。ドラクエでは異色の楽曲ですね。

すぎやま:IIのゲーム中に歌姫が出てくるんですが、その歌姫が歌っているという設定で曲を作ってくれという注文があったんですね。そこで、キャンディーズのようなイメージで、ポップな曲調にしたんです。
この曲はいわくつきで、レコード会社がドラクエ人気に乗じて、この曲に歌詞をつけて実在の歌手(牧野アンナ)に歌わせて一発狙ったんだけど、ダメでした(笑)


「ドラクエ音楽のすべてを語る」WiLL 2011年12月号増刊 すぎやまこういちワンダーランド





牧野アンナは沖縄アクターズスクール(安室奈美恵、SPEEDらを輩出した芸能養成スクール)の社長、マキノ正幸の娘であり、祖父は映画監督のマキノ雅弘、祖母は女優の轟夕起子という錚々たる家系である。現在も振付師として活躍中。

Love Song探して 牧野アンナ (動画リンク)
https://www.youtube.com/watch?v=1PJZgzDPEaI

from Anna LOVEJUNX代表 牧野アンナのブログ
http://ameblo.jp/lovejunx321/

愛知和男は東大法学部を卒業後、日本鋼管勤務、大蔵大臣秘書官を経て、'76年に自民党候補として宮城1区から衆院選に出馬し初当選。'09年に政界を引退。次男の愛知治郎は現在も参議院議員を務めている。
なお、愛知和男『この道わが旅』の編曲を手がけたのは、すぎやまの盟友、宮川泰(ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』、ささきいさお『宇宙戦艦ヤマト』を作曲)である。
後年に発売された団時朗『この道わが旅』はすぎやまこういち編曲、ルーラ『この道わが旅』は藤公之介編曲となっており、いずれも歌詞は同じだが、宮川泰による編曲も一度は聴いてみたいところ。




果てしなき世界――時間の不足、バランス調整ミス、そして発売延期

状況として年内発売が可能だったのに、何故、結果的に1ヵ月も発売がのびてしまったか?今回はそのあたりにスポットをあててみよう。
何故、のびてしまったか?
答えはカンタンである。プログラム的には完成したけど、実際に遊んでみると、非常にツラかったから。
これが、ひと月のばした理由である。
つまり、この時点では、ゲームとしてのバランスがまだとれていなかったのだ。
もっとわかりやすくいうと、自分のキャラクターの強さとモンスター側の強さのバランスがペケだったというわけ。
もちろん、プレイヤーのレベル設定やモンスターの強さの設定データは、いいかげんに作製したのではない。
中村くんのほうから先頭のシミュレータ(プレイヤーのデータ、モンスターのデータを入れて、実際に戦い、その結果が見られるプログラム)をもらい、それでいちいち確かめながら、プレイヤーのレベル設定やモンスターデータを作製していったのだった。
そこまでやってデータを作成したのに、実際にゲームとしてあがってきて遊んでみるとバランスがとれていなかった。それは何故か?
理由はふたつある。
まず、シミュレータは1回ごとの戦闘のシミュレーションで、それでもって毎回緊張感のある戦いを、というようなデータのつくり方をしてしまったため、実際にゲームになり移動しながら連続的に戦ってみると、非常にキツいものであったこと。
さらに、同じモンスターでも、出現匹数により予想以上の結果の違いがあったこと。
このふたつである。
このため、最初にできてきたものはとても遊べたものではなかったのだ


堀井雄二「ドラゴンクエスト2ができるまで(後編)」ファミコン通信 1987年7月10日号



中村:「I」の時は時間に少しゆとりがあったので、最後にしっかりバランスをとるための時間があったんです。だから、ゲームとしてのバランスが整っているのですが、大変だったのが「II」。私も堀井さんも時間の余裕が全くなくて、実は完成版のマスターロムを任天堂に入れた時点で、誰一人、最初から最後まで「通し」でゲームをやっていなかったんです。
すぎやま:えーっ、そうだったんですか!?
中村:考えられませんよね(笑)。さすがに、「この地域はこれくらいのレベルで、このくらいの武器があればいいだろう」と、部分部分ではバランスが取れていると思うんです。だから、船を手に入れてアレフガルドに渡るあたりまではきれいにバランスが取れているんですが、海の向こうへ渡った途端に、「なんじゃこりゃ!!!」という状況でして(笑)。
すぎやま:そうだよ。僕も行った途端に、瞬殺(笑)。


「すぎやまこういち×中村光一 制作チームも“冒険”してきました」WiLL 2011年12月号増刊 すぎやまこういちワンダーランド



中村:『ドラゴンクエストII』は結果としてはみなさんの好評を得ることができましたが、作ったぼくらの側からみれば、やりたかったことの半分ぐらいしかできなかった、というかんじなんですよ。
というのは、たとえば『I』なんかは自分自身でゲームをプレイしながら煮詰めていくことができたんだけど……。
堀井:『II』は時間がなかった、でしょ?
中村:そう、とにかく『II』のときは忙しくってそれどころじゃなかった。堀井さんから送られてくる仕様を見ながら、つぎからつぎへとパーッとプログラムしまくってました。バグ出しも自分ではできない状態で、さあ、今日工場へもっていくぞ、というときにはじめて自分でやったんですよ。
――どの辺が気に入らない点なんですか?
中村:まァ、船を手に入れるまではすごくいいかんじなんですけど、そのあとがどうもちょっと気に入らないな、と……。。
堀井:具体的に言うと、どのへん?
中村:やっぱりモンスターたちのバランスという面でね、これは自分が目指しているものではないな、と感じました。
堀井:とにかく『II』は時間がなかったんだよね。
中村:そう、堀井さん自身もそれまで全体を通してゲームをしてなかった。
堀井:シナリオを書きつつバランス取りをしていたからとっても忙しかった。やっぱり船を取るまでは何回もやっていたんだけど、それから先は、もう時間がぜんぜんないってことでロンダルキアに。中ヌキでやっちゃったわけ。
中村:堀井さんとぼくだけじゃなく、『II』を工場へ持っていった時点で、驚くべきことに開発スタッフの誰ひとりとして、このゲームを最初から最後まで、通してプレイした人がいなかった。この恐るべき事実! そんな調子でよくゲームが動いたな、というかんじでした。


中村光一×堀井雄二「『ドラクエIII』の楽しみどころ」『虹色ディップスイッチ』アスキー,1990年.






ドラゴンクエストIIの代表的な凶悪モンスター群。他にもゴーゴンヘッドのスクルトの応酬とか、パペットマンの不思議な踊りで凄まじくMPが吸い取られるとか、キラータイガーの集中攻撃で瞬殺されるとか、デビルロードのメガンテの恐怖とか、プレイヤーを苦しめた場面を挙げると枚挙に暇がないが、ゲーム全体のバランス調整ミスは制作者も認めている。




魔の塔――開発陣の苦闘


昭和62年、「ドラゴンクエストII」を発売することが決まった。が、なかなかシナリオづくりが進まなかった。ライターとしての仕事を終え、堀井が帰宅すると、千田幸信(プロデューサー)が家の前で待っている。
「堀井さん、早くシナリオをお願いしますよ」
そのような状況が、何日も続いた。
本業であるライターとしての締め切りに追われ、そのうえ「ドラゴンクエストII」の締め切りにも追われる。神経が太いと自負していた堀井だが、さすがに神経をすり減らした。ついには、胃潰瘍にまでなってしまった。


大下英治『エニックスの飛翔 実録・ゲーム業界戦国史』しょういん,2001年.



キム皇:今回、特に気をつけた点や、苦労したところなんか、ありました?
堀井:なにせ時間に追われちゃってねー。7か月ぐらいで作ったもんだから、みんな体がボロボロ。胃に穴があいちゃう人がいるし。
安野(※1):最後のころなんか、チュンソフトの床で、エニックスの千田さん、ころがって寝てるし……。
宮岡(※2):徹夜で打ち合わせして、昼間少しカプセルホテルで眠るんです。で、2時間ぐらいすると、千田さんが起こしにくるの。「宮岡さーん、お願いしますよー。」って、くらーい声で。(笑)

※1 安野隆志――CGデザイナー
※2 宮岡寛――シナリオアシスタント


「ドラゴンクエストII 制作スタッフ座談会」『ファミコン神拳奥義大全書特別編 キム皇の110番』ホーム社,1987年.



いうまでもなくRPGはバランスが命である。
そして、バランスをとるためには、実際にプレイしてみて、データを少し変更して、またプレイし、さらに変更してゆく、という方法しかない。
具体的にいうと、この時期から、スタッフ一同はもちろん、アルバイトのゲームモニターの人たちなど、かなりの人数が実際にプレイしてみるわけ。
そして、実際に遊んでみた感想、あるいは苦情などが、すべてボクのもとに届けられる「なかなかお金が貯まりません。もっと物価を下げてください」
「1回の戦闘に時間がかかります。もっと早めに勝負がつかないでしょうか?」
「もっとレベルが上がるのが早くてもいいのでは? 特に4から5あたりがキツイです」
「いや、レベルの上がりかたは今くらいでいいけど、あまり死なないようにしてください」
――などなど、各人各様の意見をいってくるのだった。
そういった意見に耳を傾け、さらにボク自身もプレイしてみる。
そして、ここはマズかったという部分のデータを次々に変更してゆくわけ。
それが出来上がると、すぐさま変更後のデータをファックスでチュンソフトに送る。
チュンソフトにいる中村くんたちは、ボクからの新しいデータが届くと、そのデータに差しかえて、新しい試作バージョンをつくりあげていく。
そして、それを再び、みんなに配るわけ。

プレイしてみては、呪文を覚える順番を変更したり、モンスターの強さをかえたり、教会の値段を下げたりと、1ヵ月がまたたく間に過ぎ去っていた。
もはやタイムリミットである。
100パーセントとはいえないけど、90パーセント以上は理想に近いバランスになってきたと思う。
もっと時間をかければ100パーセントに近づかせることができるだろうが、これ以上、子供たちを待たせるわけにもいかない。
12月中旬、ついに最終バージョンが完成する。
と同時にボクは胃かいようで、ぶったおれたのだった。いや~キツかったぜ。


堀井雄二「ドラゴンクエスト2ができるまで(後編)」ファミコン通信 1987年7月10日号






「ファミコン通信 1987年4月17日号『ドラゴンクエスト2ができるまで(前編)』」に掲載された、堀井直筆の武器攻撃力の仕様書(クリックで拡大)。
「はがねのつるぎ 25→30」「ひかりのつるぎ 50→65→45」など、テストプレイを経て攻撃力が調整されていた痕跡が伺える。




死を賭して――中村光一が味わった「地獄」


※ドラゴンクエストIIが制作されていた1986年当時、中村光一はチュンソフト代表であると同時に大学在学中の身であり、若干22歳であった事を念頭に置いて読んで頂きたい。

中村:『Ⅰ』はそれほどでもなかったんですよ。最終的にじわじわと売れて、それなりの本数になりましたけど、思ったより火がつかなかった。でも、ファミコンでは技術的に3人のキャラクターが表示できるというのがわかっていたんで、『ドラクエII』(87年・エニックス)は主人公を3人にしようと考えていました。ところが『ドラクエII』の制作は別のところで大変でした。
――『ドラクエII』は、発売日が延期されたんですよね。
中村:開発にものすごく時間がかかってしまったんです。あれは今思い出しても嫌な気持ちになりますよ。本当につらかった。メインプログラムなどの人数を増やして4人で分担して仕事をしていたんです。僕はメインを作って、戦闘部分を人に任せていたんです。ところがどうもプログラムの様子がおかしい。中を見てみると、ひとりのプログラムがほかの人のプログラムを壊しながら動いているんです。それが発覚するたびにやり直して、もうメチャクチャ。人間関係もどんどん悪くなるし、本当に逃げ出したくなってしまった。しかたがないので、エニックスに何度もお願いして発売日を延ばしてもらったんですけど、最後はほとんど調整できなくて終わってしまった。じつは『ドラクエII』は僕の仕事の中で不満が残っている一本なんです。
――あの難しさが逆にマニアの心をつかんだというところもありますよ。
中村:僕としては、あんな感じにするつもりはなかったんですけどね。この間も、『ドラクエII』を作っている時の夢を見ましたよ。つらかった。


「中村光一インタビュー」『ゲーム・マエストロVol.2』 毎日コミュニケーションズ,2000年.




[ドラゴンクエストII] 
当時、ゲゲゲの鬼太郎が1メガソフトで登場して、「ドラクエ」も初めて1メガロムになったんですが、プログラマーを初めて3-4人に分けて作ったんですね。これが凄い混乱を招いて、スタッフも険悪な雰囲気の中で作り上げたんですけど、プレイしてみたらもの凄くバランスが悪くて。あまりにも酷いから、どうしても1ヶ月発売を延ばしてもらったら、80万本くらいあった初回注文も一旦取り消しになって、40万本くらいに減っちゃって。プログラムの修正、他のスタッフのバグ取りとか全部やりつつ、最後に自分のやらなきゃいけないことが山ほどあって…最後の1週間は1人で4台のパソコンを使って、死ぬ思いで作り上げたんですよ。最終的には7人くらいで約半年で作ったんですが、僕にとって「II」の曲は今聴いても鳥肌が立つんですよね。凄いトラウマで、悪い意味でなんですけど(笑)


※中村光一の2003年頃のインタビュー記事。サイト「日本ゲームスタッフリスト協会(http://chibarei.blog.jp/gsl/)」より引用



中村:……事前にいただいた質問状で、“チュンソフト30周年でもっとも苦しかったことは?”というのがありますが、振り返っていちばん辛かったと感じるのは、『ドラクエII』を作っているときなんです(笑)。

『ドラクエII』のときに、初めて本体のプログラムを3~4人で分担して作ったんですね。僕にとっては、共同でプログラムを作るということ自体が初めてで、本当は最初に決めなくてはいけないことも決めずに、意思の疎通もしないでスタートしてしまったので、いろいろなトラブルが発生しまして……。途中まで動いているんだけど、突然おかしくなったりして、だけど、誰のプログラムが悪いのかわからない。みんな、完全なプロではなく、半分学生のような人たちだったので、「お前のせいだ!」と言い合って険悪な雰囲気になったりして。当時の僕の仕事は、デバッグよりも仲裁がメインでしたね(苦笑)。


「すべては『ドアドア』から始まった――チュンソフト30周年のすべてを中村光一氏と振り返るロングインタビュー【前編】」
ファミ通.com(http://www.famitsu.com/news/201406/08054671.html) 2014年6月8日



それまでのゲームは、優秀なプログラマーが一人いればできた。だが、「II」は「I」より大作にし、しかも短期間で作るためにと、スタッフの数を増やし、作業範囲を明確に分担しながら進めることにしたのだ。
いまでこそチームによるゲーム作りは常識だが、当時はだれもそんなノウハウは持ちあわせていない。それぞれが好き勝手に作業を進めたため、トラブルの続出で開発現場は大混乱。人間関係までギクシャクするなか、大学の卒業を迎えた創業メンバーの二人が一般企業への就職を決め、チュンソフトから去っていった。
スタッフは辞め、トラブル続きで発売日は遅れ……その結果受注数も当初の半分に減った。やっと完成したものの、時間がなくてチェックが行き届かなかったせいか、必要以上にむずかしいものになってしまった。
「ゲームの出来に幻滅して、このときばかりは会社を畳もうと考えた」
ところが、いざ発売してみると、240万本という前作をしのぐ売れ行きだった。「どうしても先に進めない。ヒントを教えて」といった会話が、学校や職場で交わされるようになった。中村が心配した「むずかしさ」が功を奏したのである。


「とにかく無類のゲーム好き 自立した『ドラクエ』作者 中村光一」『週刊ダイヤモンド』1998年2月7日号








(上)ドラゴンクエストIIのパッケージ裏。戦闘画面の画像に注目。
(下)パッケージ裏の戦闘画面の再現画像。当時、多くのプレイヤーが「なんでこのレベルで……?」と思ったはず。
「ちゅんち」は中村光一の名前だろうか(ニックネームは「ちゅん」)。テストプレイ時の画面をそのままパッケージに載せざるを得なかったほど、時間的にも、精神的にも追い込まれた状況だったのかもしれない。




この道わが旅――ドラゴンクエストIIの反響


中村:いざ発売したら、これが裏返しの“30周年でもっともよかったこと”になるのかもしれませんが、発売日からすごい行列ができて。ニュースになるくらいの騒ぎで、本当にうれしかったですね。

1作目はジワジワ売れたものの、思ったような勢いは出なくてそれが、『II』で爆発したんですが、よく皆さんあんなに難しいゲームを遊んだなあと、いまでも思います(苦笑)。

実際に遊んで、これはキツイと。でも、そういう難しさも含めて、皆さんで話題にしていただいたおかげで、広がったのかなと思いますね。いまのように、ネットに答えが書いてあるということもありませんし。


「すべては『ドアドア』から始まった――チュンソフト30周年のすべてを中村光一氏と振り返るロングインタビュー【前編】」 ファミ通.com



堀井:ヘンなもんで、人間つらいことってよく覚えてるから、『II』がちょっとつらかったから『II』がいちばんよかったっていう人もいるんだよね。苦労したものだから思い出深いんだろうね。


堀井雄二VS中村光一「ためになる『ドラクエIV』対談」『虹色ディップスイッチ』アスキー,1990年.



すぎやま オーケストラ・コンサートで「II」のエンディング曲『この道わが旅』を演奏すると、涙を流しているお客さんが何人もいるんですが、それだけ「II」」をクリアするまでの厳しい道のり、激しい戦い、クリアした時の感動の印象がものすごく強いんだろうね。楽曲の力だけじゃなくて、そういう思い出の力もあるとおもう。本当に大変なゲームでした。


「すぎやまこういち×中村光一 制作チームも“冒険”してきました」WiLL 2011年12月号増刊 すぎやまこういちワンダーランド




ともあれ『ドラゴンクエストⅡ』は発売され、すでにボクたち制作者チームの手から離れていってしまった。

ボクたちは世界を用意しただけである。
その世界でどんな物語を体験するかは、キミたちの手にかかっている。
願わくばその物語が楽しい想い出になりますように。


パルプンテっっ!!


堀井雄二「ドラゴンクエスト2ができるまで(後編)」












当エントリーは、「CHIEF PROGRAMMER」および「DIRECTOR」として、一人二役の大任をこなし、苦闘の果てに「ドラゴンクエストII」という傑作を生み出した彼に捧げる。




SPECIAL THANKS TO KOICHI NAKAMURA









引用文献・サイト

『ファミコン神拳奥義大全書特別編 キム皇の110番』ホーム社,1987年.
堀井雄二『虹色ディップスイッチ』アスキー,1990年.
多摩豊『テレビゲームの神々』光栄,1994年.
『ドラゴンクエストIV マスターズクラブ』JICC出版局,1991年.
『DRAGON QUEST MONSERS』集英社,1996年.
『ゲーム・マエストロVol.2』 毎日コミュニケーションズ,2000年.
大下英治『エニックスの飛翔 実録・ゲーム業界戦国史』しょういん,2001年.
WiLL 2011年12月号増刊 すぎやまこういちワンダーランド

広告批評’87年7月号 特集 ファミコン大研究
http://dragonquestage.blog.fc2.com/blog-entry-10.html

堀井雄二「ドラゴンクエスト2ができるまで(前編)」ファミコン通信 '87年4月17日号
http://dragonquestage.blog.fc2.com/blog-entry-80.html

堀井雄二「ドラゴンクエスト2ができるまで(後編)」ファミコン通信 '87年7月10日号
http://dragonquestage.blog.fc2.com/blog-entry-81.html

「とにかく無類のゲーム好き 自立した『ドラクエ』作者 中村光一」『週刊ダイヤモンド』1998年2月7日号

日本ゲームスタッフリスト協会
http://chibarei.blog.jp/gsl/

すべては『ドアドア』から始まった――チュンソフト30周年のすべてを中村光一氏と振り返るロングインタビュー【前編】ファミ通.COM 2014年6月8日
http://www.famitsu.com/news/201406/08054671.html


文章内の強調表記は管理人によるもの。また、原文の引用にあたって一部を要約し、適宜改行を加えた。

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