ドラゴンクエストのプロデューサー 千田幸信の功績




すぎやまこういち 僕はいつも思うんですけれども、プロデューサーという仕事をやっていらして、精神的に裏方に徹するという部分はやっぱり素晴らしいことだし、それがある意味、ドラゴンクエストの成功の一因だと思います。
千田幸信 “プロデューサー”という響きが、カタカナでなんとなくかっこよさそうな仕事に見えますから、表に出たがる人も多いんじゃないかと思うんですよ。僕自身はプロデューサーという言葉よりも単なる“担当者”というのが最適じゃないかと思ってますけどね。
すぎやま そこが大成功の一因だという感じがしますね。


「すぎやまこういちのゲーム漂流記 第20回 千田幸信」『The スーパーファミコン』1992年10月2日号




ドラゴンクエストの制作者といえば大抵の人は堀井雄二・鳥山明・すぎやまこういちの名前を挙げるだろうし、初代から30年近い歳月を経た今となっても、シリーズ最新作では彼らの名前が真っ先にクレジットに記載される。また、シリーズ初期のプログラマー・ディレクターであった中村光一の名も挙げられることが多い(中村は『V』まで制作に関わる)。この四人が中心となって作られたからこそ、ドラゴンクエストは大ヒット作として歴史に残るソフトに成り得たというのが一般的な見解である。


だが、プロデューサーとして重要な役割を担っていた千田幸信氏を評価する声は極めて少ない。販売元であるエニックス側の社員として、堀井・中村・すぎやまといった才能あふれる人材を結びつけ、彼らの活動を後押しし、ゲームの方向付けにも積極的に関わっていた千田の存在は「ドラゴンクエストの父」としての評価が与えられてもいいのではないだろうか。


当エントリーでは、千田の果たした役割について触れられた書籍及びインタビュー記事等を参照し、ドラゴンクエストにおける千田の功績について取り上げる。


堀井雄二と中村光一の橋渡し役として


千田は、エニックスの前身企業である「営団社募集サービスセンター」が寿司チェーン店事業(!)から撤退し、PCソフト販売へと事業転換した際に設立された関連会社「エムシービー」にプログラマーとして在籍していたが、一度は退職していた。その後、同社がゲームソフトの企画・販売に乗り出そうとしていた頃に社長の福嶋康博の元を訪れ、エニックスの設立に参画することになる。このとき、エニックスの社員は社長の福嶋を含めてわずか3名だった。


そしてエニックスは人材発掘および知名度向上のためにゲーム・ホビープログラムコンテストを開催することになり、千田は市場調査とコンテストの宣伝を命じられる。約300件の応募作品が集まり、社員3名で入賞作を選考することになったのだが、彼らは3人ともゲームに関してはまったくの素人であった。しかしこのコンテストで、フリーライターであった堀井雄二と、香川県の高校生であった中村光一、のちのドラゴンクエストにおいて中核となる人材の発掘に成功する。





「遊んでつくってマイコンゲーム!!!」『週刊少年ジャンプ』 1983年3月21日号


「福嶋と私と、それとすでに退職した者と、その3人ですべての作品を実際にプレイしてみて、それで審査を行いました。
実際にプレイしてみると、作品ごとにかなりレベルに差があることは素人目にも分かりましたので、とくに審査に苦労したという記憶はないですね。
ただ、ゲームとしての面白さは、ぼくなんかは当時はよくわからなかったというのが正直なところです。いま思うと、奇をてらったような作品が面白いんだみたいな感覚がありましたね」


滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』 青春出版社,2000年




1985年からエニックスはファミコンゲームの企画販売に乗り出し、既にPC版として好調なセールスを記録していた中村光一の『ドアドア』を、ファミコン参入第一弾ソフトとして発売。市場に好評を持って受け入れられ、約20万本の売り上げを達成する。続く第二弾ソフトをどうするか、千田と中村は検討を重ねる。





当時、PCゲームソフト市場においてはRPGが流行しており、中村はファミコンでRPGを作ることを望んでいたのだが、千田との話し合いにより、アクションゲームが主流となっているファミコン市場においては、データやテキストを読み取って進めるRPGは時期尚早と判断。そこで、先にアドベンチャーゲームを市場に送り出し、ファミコンユーザーがすんなりとRPGを受け入れられるための下地を作ろうとした。そこでアドベンチャーゲーム入門における格好の素材として取り上げられたのが、堀井雄二の『ポートピア連続殺人事件』であった。


元々『ポートピア連続殺人事件』はPC-6001用ソフトとして堀井みずからがプログラムを手がけて製作されたのだが、堀井の本業はフリーライターであり、ファミコン用のソフトを一人で開発できるだけのプログラム能力は無かった。千田の後押しにより、ファミコン版の開発においては、堀井はシナリオの手直しに専念し、プログラムは中村が代表を務めるチュンソフトに任せることになる。





堀井と中村が初めてタッグを組んだ『ポートピア連続殺人事件』は、ファミコン初のアドベンチャーゲームでありながら約60万本のセールスを記録するヒット作となる。
ゲーム・ホビープログラムコンテスト以降、ほとんど接点がなかった堀井と中村だが、『ポートピア』のファミコンへの移植作業がきっかけとなって意気投合。ゲーム全般、特に『ウルティマ』や『ウィザードリィ』といった海外のRPGについて熱心に語り合う仲となった。千田は両者の間を取り持つという重要な役割を果たしたのである。かくして、ドラゴンクエストが生まれる土台はでき上がった。




すぎやまこういちを音楽に起用


1985年の秋、ドラゴンクエストの開発がスタートする。シナリオを含めた主要ななゲームデザインは堀井が担当し、プログラムその他の開発作業は中村が率いるチュンソフトが担当する。さらに、堀井の友人であった週刊少年ジャンプの編集者、鳥嶋和彦を介して、当時人気絶頂のマンガ家であった鳥山明がモンスターデザインを手がけることになった。
世界一のゲームに向けて、最強の布陣は整った。


実は最初から、このゲームは絶対に当たると確信していました。ですから、主なスタッフを集めて宣言したんです。
「私はこれから世界一のゲームを作ります」と。その記録を残すために、写真を撮ったことがあります、スタッフ全員の。そのくらい、自信はありました。

今から考えれば、あの当時どうしてそこまで宣言できたのか、正直に言うと思い出せないんです(笑)。ただあの時点で、私どもが時代の流れというか、ファミコン業界の、ユーザーの流れというのを完全につかんでいたことは事実です。


「時代のニューロンとの出会い ドラゴンクエストを解体する 千田幸信インタビュー」『On The Line』1988年9月号,ダイヤモンド社/KDD広報室







千田が開発スタッフを集めて写真を撮ったというエピソードは『ドラゴンクエストへの道』でも描かれている。

しかし、「世界一のゲームを作る」とスタッフに豪語したものの、千田の胸中では、一つだけ欠けているものがあった。


「ぼくは『ドラクエ』のプロジェクトをスタートさせるときに、みんなに『世界一のゲームを作るんだ』と宣言したんですよ。
シナリオライターもプログラマーもキャラクターのデザイナーも、みんなそれぞれの分野の第一人者が集まっているんですから、世界一のゲームが作れるはずだ、と。ただ、一つだけ足りないものがあったんです。音楽。

何とかしなければいけないなと思いつつプロジェクトを動かしていたんですが、本当に偶然にすぎやま先生と知り合うことができて、それですぎやま先生に音楽をお願いすることにしたのです」


滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』




すぎやまこういちがドラゴンクエストの音楽を手がける事になった経緯は以下のとおり――
エニックスから発売されていたPCゲーム『森田の将棋』をすぎやまがプレイし、同梱されていたアンケートハガキに感想を記入して机の上に置いていたところ、すぎやまの妻がポストに投函し、エニックスの千田の目に触れることになった。すぐさま千田はコンタクトをとってBGMの作曲を依頼し、すぎやまは快諾する。
偶然が重なったことにより、ドラゴンクエストの名曲は出来上がった。

すぎやま で、実際に直接のきっかけになったのは「森田の将棋」のアンケートハガキを書いたことだったんですけど、あれは千田さんが直接見つけてくださったんですか?
千田 あれはいろいろありまして、私自身は私が見つけたんじゃないかと思っているんですけどね。
すぎやま 社内で、実は私が見つけたっていう人がいたりなんかして。
千田 そうなんですよ。まあ現状で記録が残っているのでは私が見つけたことになってるんですよね(笑)
すぎやま でも見つけてもらってよかったよなあ。
千田 僕の目の前にアンケートがあったときは、前々からすぎやま先生は存じ上げておりましたので、何かのきっかけになればいいなと思いましてね。手紙か何か書かせていただいたんですよね。
すぎやま そうそう、それをいただいてすぐ僕が電話したんですよ。で、僕が連絡したときにはもう具体的に音楽を依頼しようとおもってらっしゃってた?
千田 イメージ的にはありましたね。当時は「ドラゴンクエスト」のプロジェクトが進行してましたから。手紙を出したときはイメージ的にあったんですけれども、そのあと直接先生とお会いしていろんな話を伺ったうえで、これは絶対にイケるという確信がありました。


「すぎやまこういちのゲーム漂流記 第20回 千田幸信」『The スーパーファミコン』1992年10月2日号







だが、すんなりとは行かずに一悶着あったようだ。すぎやまに依頼する前に、既に開発スタッフによってゲームのBGMはでき上がっており、中村光一らチュンソフトの一同は、すぎやまの起用に対して猛反発する。千田は彼らを説得し、すぎやまと実際に会って話をするように取り計らった。


すぎやま ボクはゲーム好きでゲーム音楽にも興味を持っていた。だから千田さんからの電話は渡りに舟だった。“ゲーム音楽を作ってもらえませんか”と言われ、“やりましょう”と即答した。悩む時間は一切なし。本当に、間髪いれずに快諾した」

中村 超有名な大先生ですよ。そんな凄い人が、真面目にゲームの音楽なんて作ってくれるとは思えなかった。チョロチョロって作って終わりにされると思った。しかも、千田さんがすぎやま先生にお願いする、と言い出した時には、すでに僕らで音楽は作ってあった。だから猛抗議しました」


「ドラゴンクエスト誕生25周年 産みの苦しみに悶絶した「製作者」の開発秘話」『週刊新潮』2012年1月5・12日号







そしてすぎやまは千田の付き添いのもと、調布市のワンルームマンションの一室にあった“大学生のサークル”のような会社、チュンソフトを訪れる。


すぎやま 千田さんから「こちらがチュンソフト社長の中村光一さんです」って紹介されている間、周りで見ているスタッフはみんな、非常に不審な目つきで、じっとりと下から見上げるように睨んでいた(笑)


『WiLL 2011年12月号増刊 すぎやまこういちワンダーランド』




中村ら開発スタッフは不承不承ながらも話をしてみたところ、すぎやまのゲームに対する造詣の深さを知り、徐々に心を許していく。そしてスタッフに受け入れられたすぎやまは、DQのすべてのBGMを一週間で作曲するという凄まじい仕事ぶりを見せる。メインテーマである「ドラゴンクエスト序曲」に至ってはわずか5分で作曲したらしい。

この一連のエピソードは偶然と必然が重なり合っており、あまりにも出来すぎた話だと思うのだが、「世界一のゲームを作る」という千田の熱意が運命的な出会いを呼び寄せたのかもしれない。




コミュニケーション・ツールのひとつとして



エニックスはゲームソフトの企画販売会社であり、開発は外部のメーカーに委託していた。千田はエニックスの社員(取締役)であり、主に均衡役を務めるプロデューサーという立場であったが、ゲームの内容についても積極的に関わっており、時には堀井や中村と激論を交わすこともあったようだ。


発売元はドラクエシリーズによって一躍全国にその名を轟かせることになった「エニックス」(現/スクウェア・エニックス)。開発を請け負ったのは「チュンソフト」だ。ゲームの制作に要した期間は85年11月から86年4月までのわずか約5カ月。
「戦闘は」「マップは」「モンスターは」――チュンソフトの本社があった東京・調布。旧甲州街道に面した7階建てマンション「ダイアパレス調布」の部屋で、男たちが白熱した議論を戦わせていた。その中に、シナリオ/ゲームデザイン担当の堀井雄二、ディレクション・プログラム担当の中村光一、エニックスの千田幸信の三人もいた。当時、堀井は31、中村は21、千田は35歳。
「僕も中村くんも千田さんもみんな頑固だから、一度自分の主張をしだすと、議論になることは何度もあった。
と、堀井は述懐する。
「例えば、エンカウント率の問題でも、どうやって計算するかで意見が合わないと激論になる。僕と中村くんは同じ理論を推したんだけど、千田さんが別の計算式を主張して譲らない。それで、ホワイトボードで延々と計算した。ところが、僕のやつも千田さんのやつも結果はほとんど変わらない。でもそうやって結果がでないとお互い納得しなかった」


「ドラゴンクエスト誕生25周年 産みの苦しみに悶絶した「製作者」の開発秘話」『週刊新潮』2012年1月5・12日号




また、千田はステータスウィンドウに「レベル」の表記を入れることに執拗に拘った。RPGといえども必ずしも一人でプレイするのではなく、友人たちが集まり「ここに行くにはレベルが足りない」「もっとレベルを上げたら」といった具合に、コミュニケーションをとりながらゲームを進めることを想定していたのだ。そこには、電話やアンケート葉書で子供達の意見を吸い上げることによって育まれてきた、千田のゲーム観が結集されていた。





左が開発中の画像。右が完成品。


ユーザー・ニーズの吸い上げに関しては、まず私自身が徹底的にユーザーの声を聞くように心掛けています。
まずユーザーからの電話も直接取ります。ゲームの攻略法を教えてくださいとか、ゲームのここがマズイとか、とにかく子供たちは本当に色々なことを言ってきます。それに本気で応えています。それと毎日大量のアンケート葉書がかえってきますから、その90%以上には目を通しているんです。「ドラゴン・クエスト2」ですと、今の時点で10数万通ですね。葉書を読む、これを続けていくと、彼らが次にどんなゲームを求めているのかが、ハッキリと見えてくるんです。

僕は子供達からの電話を毎日取っていて、彼らは「ドラゴン・クエスト」を1人でやっているわけじゃない、ということを痛切に感じましたね。必ず、2~3人でやっている。画面の前に1人じゃないんですね。ゲームの画面で、2人、3人が楽しんでいる。
ここで先ほどのロールプレイング、役を演じるということが、非常に生きていると思うんです。ゲームの舞台で、1人で役を演じているわけではない、観客、ギャラリーをつれてゲームをやっているんです。友達や、親や、観ている方も、何をバカなことをやっているんだ、とか、なるほど、と感心したり、観客として面白がって観ているんですね。

僕はファミコンゲームは、コミュニケーションの材料というか、人と人が関わるための材料だと思っているんですよ、ずっと。数年前「ポートピア連続殺人事件」というアドベンチャー・ゲームを出した時に、ストーリーで使う言葉が難しいな、と思ったんです。アリバイとか、操作ですとか、平仮名で書いてもわかんないんじゃないかと。
でもその時、家にいるなら、お母さんに聞いてもらえばいいんじゃないかと考えたわけです。その時から、コミュニケーション・ツールのひとつとして、ファミコンをずっととらえてきています。


『On The Line』1988年9月号






こうした強い熱意を持ってソフトの製作に取り組んだ千田の功績は計り知れない。彼のプロデューサーとしての真摯な働きがあったからこそ、堀井も中村もすぎやまも存分に才能を発揮できたのではないだろうか。単なる子供向けの商売のネタとして、テレビゲームを軽く捉えるような人物がプロデューサーを務めていたら、はたして、ドラゴンクエストは歴史に名を刻むほどのソフトに成り得ただろうか。

そして、1986年5月27日。世界一のスタッフが結集することによって生み出されたゲームソフトが、世に送り出されることになる。






ドラゴンクエストVI開発時のミーティング。中央にいるのが千田。


その後、千田は『ドラゴンクエストVII』までプロデューサーを務め、現在(2015年)もスクウェア・エニックス社の取締役として在職中である。メディアに出て多くを語るような事はせず、あくまでも裏方に徹して開発スタッフを支える役目を担っていたようだが、最後に、ドラゴンクエストというゲームの魅力を語った彼の発言を引用して当エントリーを締めくくりたい。


「ドラゴン・クエスト」は、人間の努力が無駄にならない世界なんです。ゲームの要素として主人公に経験値という能力があるんです。悪者や怪物と戦って勝つと、その値が上がって主人公は一段と強くなる。そして絶対に減らない。失敗したら何度でも挑戦を繰り返し、最終的には目標が達成される。「ドラゴン・クエスト」は、人間が本質的に望んでいることを実現できる世界になっているんです。

「ドラゴン・クエスト」自体、悪を倒して正義を守るという、非常にクサイ話ですよね。でも人間の本質がそこにある。かつて小説も映画もストーリーと言えば、この正義の王道の話が多かったと思うんですね。ただそれが繰り返されると、クサくなる、陳腐になってくるわけです。
でも新しいメディアが出てくれば、また別な方法でそれを実現できる。つまり、新しいメディア、ファミコンだからこそすんなり受けいれられたんじゃないでしょうか。


『On The Line』1988年9月号











(おまけ すぎやまこういちが語った千田のエピソード)

たしか『II』か『III』の時だったと思うのですが、こんな逸話がありました。エニックスの千田さんのところに、やくざの舎弟から電話がかかってきた。電話口で、「おめえんところはなんだ、『ラーの鏡』とかいうのを隠しやがったらしいな。ありかを教えろ!」って凄んでいるんですって。
で、千田さんは冷静だから「お教えできません」、“ガチャッ”と切る。するとまた電話がかかってきて、「親分が舎弟を行かせるから待ってろよ!」なんて脅されたんで、さすがに当時のエニックス社屋の目の前にあった淀橋警察に連絡して、警護に来てもらったそうです。


『WiLL 2011年12月号増刊 すぎやまこういちワンダーランド』



“あらくれ”にも毅然とした態度を崩さない千田さんであった。






参考文献

石ノ森章太郎監修,滝沢ひろゆき作画『ドラゴンクエストへの道』エニックス,1990年.
多摩豊『テレビゲームの神々』光栄,1994年.
前野和久監修,飯島博著『わたしたちの生活と産業10 TVゲームをつくる』ポプラ社,1995年.
滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』青春出版社,2000年.
大下英治『エニックスの飛翔 実録・ゲーム業界戦国史』しょういん,2001年.
『WiLL12月増刊号 すぎやまこういちワンダーランド』ワック出版,2011年.
「時代のニューロンとの出会い ドラゴンクエストを解体する」『on the line』1988年9月号,ダイヤモンド社/KDD広報室.
「すぎやまこういちのゲーム漂流記 第20回 千田幸信」『The スーパーファミコン』1992年10月2日号
「『ドラゴンクエスト』誕生25周年 産みの苦しみに悶絶した『製作者』の開発秘話」『週刊新潮』2012年1月5日号,新潮社.

引用文の強調表記は全て管理人によるもの。また、文中は読みやすさを考慮し、敬称略とさせて頂いた。

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