'96年3月 週刊AERA 『ドラクエ』をつかさどる孤独な神様。堀井雄二



週刊アエラ 1996年3月18日号

現代の肖像 ゲームデザイナー 堀井雄二



一般週刊誌に掲載された記事だが、堀井雄二のパーソナリティに肉薄した素晴らしい内容なので、DQファンは絶対に目を通して頂きたい。

記事は『ネトゲ廃人』などの著作もあるフリージャーナリストの芦崎治によるもの。転載にあたってわずかに要約し、読みやすさを考慮して改行および区切り線を加えた。






夜の灯が瞬きだした東京の副都心、新宿。盛り場から少し外れた新宿六丁目のマンションの一隅に、ゲームデザイナー堀井雄二(ほりい・ゆうじ)のアーマープロジェクトがある。スタッフは発売元のソフトウェア会社エニックスに勤務しており、午後七時、秘書が帰宅するとクリーム色の事務所に人影がなくなった。
棚に並んだ数々の『ドラゴンクエスト』のキャラクター人形が机にむかう創造主の背中を見守っている。酒を嗜まない堀井は、新宿の猥雑な喧騒を横目に東京の空が白むまで没頭し、時にうだうだと無為になり、また格闘してはアイデアを絞りだす。ドラクエという世界観を創った神様は週のうち三晩は二人の子供と夫人が待つ家に戻らずに、夜の空想時間を彷徨する。


「孤独だと思うよ、俺。ほんとは寂しがり屋だから、休憩すると夜中にマック触っているんだよ。神様は孤独なんだよー。ワッハッハッハー」


人見知りで悪戯者、それでいて照れ屋の堀井は話がシリアスな琴線にふれた途端、オフィスに響く大きさで笑い飛ばした。それはあたかも現実から異次元に瞬間移動できる不思議な少年の呪文のように。


昨年12月上旬に、三年六カ月の製作日数を要した『ドラゴンクエスト6』が発売され三百万本が売れた。子供が長蛇の列をなして社会現象を引き起こしたひと頃と比べると、ブームの憑き物は落ちた。だが仮に一つのソフトを二人の友達に貸したとするとドラクエファンは一千万人前後いる、と推定できる。
『6』を完成させ南の島で休養しようとしていた堀井に『3』のスーパーファミコンへの移植が舞い込み、毎週火曜日にエニックスの役員室で開かれるスタッフのドラクエ会議は『6』から『3』へ。同じゲームをスーパーファミコン化するにしてもレベルを上げて商品にしないと堀井のプロ意識がおさまらない。


「仕事には恵まれている。収入も凄くあって、やったことはみんなが評価してくれる。なかなかやめられない気がするのね」


「人間の能力なんてそんなに差がないんじゃないかと思うの。昔の人がいった1%の才能と99%の努力は的を射ている気がするね。アイデアはあってもそれを形にする根気が重要になる。辛くて嫌になることもあるけれど、苦労して勉強して自分を磨いて続けられるかどうかが大切だと思うけどね」








集英社『少年ジャンプ』編集部にいた鳥嶋和彦が中野区大和町にいたライター堀井雄二を尋ねたのは82年の夏。購入して数カ月のPC-6001を見に行った。市販のソフトを改造し、ゲームに興じていた。


「堀井くんのゲームは燃料補給の宇宙基地が焼きいも屋のラッパを鳴らし、燃料いりまへんかーと関西弁で近づいて来るあったかいゲームに改造されていた」


その年、小さな会社だったエニックスが第一回ゲーム・ホビープログラム・コンテストの作品を募集していた。鳥嶋は堀井に応募用紙を手渡し取材を依頼した。すでに出来ていたゲームソフトを投函して、暮れに応募作品の取材にゆくと佳作入選していた。それが処女作の『ラブマッチテニス』だった。
翌年、入選の副賞の米国旅行に取材を重ねてアップルフェストを見に行った。帰国して噂に聴いていたRPG『ウィザードリィ』を買った。勘に頼ってゲームを進めていた堀井に、鳥嶋がマニュアルを翻訳して週に一回情報交換をして初めて触れるRPGに入れ込む。


「はじめの三日間はわかんなかった。それから世の中にこんなおもしろいものがあるのか!とわかって、まる二カ月仕事を休んで熱中した」


『少年ジャンプ』の中心読者層は十二歳。当時の発行部数は二百五十万部。袋とじオール四色でシューティングゲームの特集を堀井に企画・執筆させると編集部の電話がいっせいに鳴った。ライター業のかたわら、二作目の『ポートピア連続殺人事件』を作りながらゲームに対する読者の反応を見ていた。
勝算があれば一歩一歩踏み出す慎重な堀井が、RPGについて、自分が熱狂した確信もあって「君が主人公になってゲームの世界を冒険する物語だよ」と子供たちにその魅力を説いていた。


ゲーム業界では通常プログラマーが出世してゲーム作家に転身する。80年代初めの揺籃期、製作者はすべて理数系タイプで占められていた。数学的な才能は欠かせなかった。0101……といった数字の羅列をゲームに組み立てなければならないからだ。
こうした数値の感性に加えてゲーム作りに必要なことはプレーヤーを飽きさせずに導いてゆく物語を紡ぐ力のあること、そしてビジュアルな画面を構成するうえで絵心も肝心になる。堀井はこれらの諸条件を満たすような青春期を送ってきた。




中学に入ると貸本屋に入り浸りになり『少年』『少年画報』『冒険王』など漫画月刊誌を全部愛読し、「漫画家になる!」と家族に宣言した。高校では漫画同好会に入り、部屋に篭っては四コマ漫画を描いた。五歳年上の兄は一つだけ作品?を覚えている。


「忘れな草の思い出というタイトル。一コマ目に忘れな草、二コマ目に犬。三コマ目、犬が花の上にウンチをする。四コマで花が“おもいでェー”(苦笑)」


高三の夏、書き溜めた漫画を手にし意を決して上京。大塚にあった漫画家永井豪の門を叩く。永井に「高校を出てからまた来なさい」と弟子入りを婉曲に断られた。それから「やはり漫画家は文学部だ」と思い込んだ堀井は秋から受験勉強を始めて、72年春に早稲田大学文学部に入学し、すぐに漫画研究会に入部した。同期の漫画家えびなみつるは、第一印象を、「文学部を数学で受験して入った、変わったおもしろいやつだな、と見てました」
漫画も勉強も二時間しか集中できない飽きっぽい堀井は歴史など暗記ものが苦手。英・国・数の三科目で受験した。この時の、数学の答案が傑作である。


「犬と猫が池を走っていて複雑な問題だった。数式で答えをだす時間がなかったので絵を描いて、こうすれば答えがでると解説した」


漫研が発行していた『早稲田漫』には亜蘭ゆうのペンネームでつげ義春風の内面世界を描写した暗いトーンの漫画を描いていた。
「コマ運び、せりふの流れが巧い。文学部のくせに漢字を知らないとバカにされてたけど。上手な素人が多い中で、こいつは下手なプロとまわりが見ていた」
イラストレーターになった大川清介が述懐する。


『漫画サンデー』の原稿取りで生計を立てていた四年の春、バイクで事故を起こし九死に一生を得た。休学して郷里で一年静養するが、商店街に夜店が出ると似顔絵描きになって一枚五十円で子供に売っていた。
在学六年目に文学部人文学科専攻の卒論「ドラマトゥルギー 美学について」と百枚書いた。その演劇論のうち二十枚は堀井の漫画で水増しされてあった。




1954年1月、ガラス店を経営するせっかちで職人肌の父秀雄とおっとりした母正子の間に生を受ける。父は新案特許を20ほど申請している町の発明家。母は店にでて事務を支えてきた。堀井は両親に叱られたという記憶がない。おおらかな祖母きみと若いお子守さんに育てられた。
洲本第三小学校の成績は算数の5を除いてほとんどが3。工作は得意だった。店にあるアルミサッシ建材を利用して入賞すると玉のでる水平のパチンコ台を作った。ほかにはよく燃えるマッチ棒の東京タワー、わけのわからない抽象的な宇宙人の絵。


「先生が喜びそうなもんは作らんのですわ」
六軒先の商店街の幼なじみは、そう振り返る。もうその頃には関西圏でいう悪戯、おふざけ者のイチビリと呼ばれていた。テレビのチャンネルを引き抜くと回転軸がむきだしになる。それを何本ものエナメル線で結び、「さわってください」と貼り紙をして家族をビリビリ痺れさせたりした。洲本高校の文化祭ではお化け屋敷を作って、異様に燃えた。


「仕掛けるのが好きなんだよ。ひとを驚かせてその反応を見るのが好きなんだよ」とは本人の弁だ。


からかうことは相手を楽しませることだという堀井のイチビリ精神は、ドラクエの随所に現れる。
『ドラクエ1』では、ふつう30時間かけて最後に勇者が竜王に到達する。ところが竜王は「この世界の半分をやるから寝返らないか!」と勇者に甘い罠を仕掛けてくる。


「よくぞここまで来た! わたしを倒して見よ! と戦闘シーンになるよりも、どういう場面がショックだろうと考えた。それでワンクッション置いたわけ」


堀井自身がおもしろがりの切り口、笑いのツボといった基準値は何かときくと、こんな返事が来た。


「吉本興業のドタバタは好きじゃない。松竹新喜劇のペーソスをギャグってしまうヒネた部分がある」


イチビリな仕掛けはシナリオに限らず、スライム、ドラキー、ゴーストなど二百体ちかいモンスター登場の仕方にも発揮される。


「業界人は堀井さんがお山の大将で、シナリオ書いて後はスタッフが作っていると思っている。モンスターとプレーヤーの強さ、この城の近くではスライムと大なめくじをどういう設定で出すか、モンスターの出現確率も全部堀井さんが決めている」
プログラマーの山名学がいう。ゲームバランスを取らせると堀井は天才的というのがスタッフの評価だ。データはただの数字の山。単に数学的な確率論を応用すると平凡なバランスになる。山名はこう続ける。
「プログラムを入れてみると、ゲームに血が通っている。堀井さんは数字を読みながらゲームイメージを正確に捉えることができる」と。


堀井作品の販売総本数はドラクエシリーズを含め、21,898,000本に及ぶ。ドラクエのキャラクターグッズは数百種類、エニックスにドラクエ課ができ、年商百億から二百数十億円の売り上げの半分以上はドラクエ関連。堀井は昨年6月にエニックスの取締役に就任した。
しかし、「堀井君も馬主にでもなれば」と誘われるほど所得はあるが、ドラクエの音楽担当すぎやまこういちのコンサートに招待されれば革ジャンを引っ掛け原付のバイクで現れる。「もっと先生らしくして」というアシスタントの願いに促され洋服を買う。余暇は頭をカラにするパチンコぐらい。86年に世田谷に買った三十六坪のマイホームに住み続けている。


「こういうと皮肉にとられちゃうんだけど、あんまり欲しいものないんだよね。贅沢したいと思わない」


スーパーマリオの生みの親で、やはり中学時代に漫画家に憧れた任天堂の宮本茂は、このように評した。
「堀井さんは自分がいかに普通の人でいられるかをテーマにしておられるようですね。ひとが興味を持ったものには興味を持つ。専門知識を持ったマニアにならないでおこうという距離感がありますね」


現代は群衆社会となり、見知らぬ他者との開かれたコミュニケーションが成り立ちにくい。コンピューター・メディアが対群集状況から、向かいあう対個人の原始社会にあったでろうヒトとヒトの間の温かさを取り戻していると堀井は論を展開する。




ドラクエ前期のプログラマー、チュンソフトの中村光一も、後期のプログラマー、ハートビートの山名学もひとりっ子。堀井もまたひとりっ子同然で育った。


「人間は好きだけど、人付き合いが巧くないからモノを作ることでコミュニケーションする。屈折した行動かもしれないけど……」


一つのゲームソフトを分業化して百人で仕上げる工業化の時代。少人数のスタッフで、細かなモンスターデータまで堀井みずからが点検する。


「性分だから、ひとに任せられないのね」


ドラクエは資本主義の原則に反した手工業である。


「不幸でもないけど、幸福だとも思ってないよね。どっかが満ちると、どっか足らないわけで。俺は欲ばりなんで、満ちる状況ってないんだと思う……」


こう来るとこうやって……。プレーヤーの動きを想定して艱難辛苦の末、最高のイチビリを考え抜く。それに応えるかのようにプレーヤーは育ってゆく。ドラクエの神様は峻嶺を超えてゆく修験者に見える。
夜間、ひとり微笑みながら現実に出会うことはない数百万のちいさな勇者たちに向かい、愛情を包み隠したイチビリを創作する。堀井雄二は温かいねじれた含羞の人である。





(以下管理人)

丹念に取材した形跡が伺える素晴らしい記事である。記事の感想については各々で自由に考えて頂きたいので、あえて私からは何も付言しないが、偶然この記事を見かけたことがきっかけとなって、当ブログを始めるに至った。私はそれくらい感動しました。


当記事を執筆した芦崎治はほかにも中村光一、内藤寛、山名学ら歴代DQのプログラマーを扱った記事も著しているので、後日紹介する予定。

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